じじらぎ

   OLD »

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

回線が回復した!

インターネット回線が回復した!  3か月余りの通信途絶。  長かった!

通信途絶の条件が如何にして改善されたのか…については、後ほど説明したい。  今は孤立、疎外状態から解放されたことをひたすら喜んでいる。  偏屈も孤立したままでは格好がつかなかった。
スポンサーサイト

! 

うまくいった! 大成功!

なぜこうなったのか分からない。  予定外のことなので、記事を今から書く覚悟が出来ていない。 過去に書いて埋もれたままになっている書き込みの“発掘” も時間がかかりそうなので、きょうのところはひとまずこの場を離れる。

行方不明の書き込み

ブログを復活する旨を宣言したのに結果的に空手形に終わったままになった。

実はサボっていたわけではない。 ない知恵を絞って懸命に書いた。 老いの一念! 

ところが、鹿児島市の寓居に置いたコンピューターが言うことを聞いてくれない。 老いの一念が通じない。


あまり長いこと放って置くわけにいかない。 ついに“新学期” にずれ込んだところで、腰痛がひどくなるのを覚悟して机にすわり再挑戦することにした。

沖縄慰霊の日

6.23について

「島日記」 を継続します

「小宝島日記」 は2014年1月22日を最後に書き込みをしなかった。 きょうは2014年6月22日。 5カ月もたってしまった。

この間、生活の拠点を小宝島から鹿児島市に移した。 冬の寒い時期に救急医療体制のない島に住まうことの危うさを考えたのがきっかけである。


長い沈黙の穴埋めにはとてもならないが、昔語りをする。 
……16年前、出張先の東京・渋谷で頻脈発作を起こした。 いっこうに治まらず、やがて拍動を確認できなくなった。 胸ははげしく波打って苦しいのに脈がない!

タクシーをつかまえて広尾の日赤中央病院の救急外来に駆け込んだ。 夜のことで他の病院は空いていない。 図らずもこれが最善の選択だった。

症状を訴えると数人の医師、看護師らに取り囲まれた。 頻脈のために心臓が小刻みに震えてポンプの役割を果たせなくなった状態。 放っておくと肺に水が溜まり「溺死」。 あるいはドロドロになった血液が脳や心臓の血管に詰まり、朝までは命がもたない…という。

後ほど頻脈発作の治療は成功したが、これによって健康体になったわけではない。 身体障害者手帳に加えて「狭心症」 という病名を頂戴した。 最低限の医療体制がなければ、いつでも死ねる体らしい。

ちょっとオーバーなもの言いだったかもしれない。 しかし、医師会のドクターヘリも“圏外” にしている小宝島では海上保安庁、自衛隊の搬送ヘリが飛んで来てくれるまで出動を要請してから最低4,5時間かかると言われている。

心筋梗塞だけでなく、血管の硬化が著しいと言われている私の場合は脳出血、脳梗塞、動脈瘤破裂なども心配である。 せっかく飛んできてくれた救急ヘリを“霊柩ヘリ” にしてしまう不始末だけは避けたい。

そんなわけでここ数年、2月は鹿児島市に避難するのが習わしになった。 しかし、ことしはズルズルと鹿児島市に居座った。 持病の悪化と老衰の自覚がそうさせた…と言い訳したいところだが、本当のところは住み心地が良かったのである。


かくて5月8日に鹿児島市に住民票を移した。 残念至極ながら、それで失ったものに比べて、得るところが沢山あった。 久しぶりに市民としての人権人格を認めてもらったのがなにより嬉しい。


さて、トカラ列島小宝島日記のブログの継続について弁解しなければならない。

タイトルは前のまま。 トカラ列島に鹿児島市を加えるのは強引すぎるのかもしれない。 主たる理由はタイトルをつくり直すのが面倒なせいだが、トカラ列島(吐火羅列島) は島尾敏雄さんの唱えたヤポネシアの重要な部分を指す…という思い込みがある。

ヤポネシアのうち海、あるいは森に棲む者たち。 騎馬民族である朝廷の凶暴性欺瞞性を許さず最後まで抵抗した民の末裔。世界有数の活火山地帯、地震多発地帯の天災、人災に先祖代々苦しめられている者ども。 

そんな人びとが棲むヤポネシアの主要部分を吐火羅と呼ばせていただきたい。

といういわけでトカラ列島鹿児島日記。 

こんなこじつけを許してもらえれば気持ちがうんと軽くなる。 いずれトカラ列島福島日記、トカラ列島青森日記などというのを書くかもしれない。

行きはよいよい、帰りは酔い酔い

22-1012(1024x676).jpg     1012時、パパラギ食堂から。 きょうも波が高い。 風は北、いちだんと冷たい。

村営船「フェリーとしま」 は20日月曜日出航の予定が、2日遅れてきょう出港する。 

遅らせても凪になるわけではない。 下りは追い風、上りは向かい風。 


そろそろ薬が切れるので鹿児島詣でをしなければならない。  このところの天気では、時化で船足は遅くなり、船酔いに悩まされる時間も時間も長くなる。 弱り目に祟り目。

二重苦からのがれるために、いったん名瀬に下り、名瀬からは8,000㌧クラスの大型フェリーで上る手がある。 明日の天気予報をみてどうするか決める。 

今月のあれこれ

日の出半分 (1) 日の出水面 (1)

光の幕 (1) 日の出半分 (2)      書き込みをサボるだけサボった。 ここで詫びるのは却って横着というものだろう。  

政治屋さんと違って人気などどうでもいい、ただのクソ爺ぃ。 土下座や倍返しなどというのは性に合わないから、偏屈の本性をむき出しにして居なおる。


とにかく生きている。 何が悪い!


年頭に宣言した一年の計は来年の元日まで生き延びることであった。 これには、いちおう努力している。 



どんな風の努力かと言えば、一日一回はパパラギの門を出て自力歩行する。 それだけ。

そのさい、転ばぬ先の杖をつく。 


原則として毎月一回、鹿児島の医院に詣で、2つの病院で効く薬・効かない薬をもらう。 たくさんの薬と一緒に医者ドンからいただく貴重なアドバイスは3つだけ。 


なまけずに運動をしなさい。 無理をしてはいけません。 そして、転ぶな!


頑張れと言っているのか、頑張るなと言っているのか分からない。 転ぶのがいけないことは複数の博士さま方に
くどくどと言われなくてもよくわかっている。 患者の立場では、貴重なアドバイス3つは安くもない診察料に引き合わない。



絶対に転ばない方法は一つ。 

立ち上がらないこと。 一日中横になっていれば転ぶこともない。 寝たきりになる時期をできるだけ先に延ばすために病院通いをするのに、これではなんにもならない。 

否も応もない。 大げさな言い方をすれば命がけで自力歩行を敢行する。


6年前に整形外科の医者ドンから頂戴した病名は、後縦靭帯骨化症。 筋肉と骨をつなぐ組織が石灰化していく病気で今のところ治療の決め手が見つからない。 転べば脊柱が壊れる心配がある。 珊瑚礁と石灰岩を削って開いた道を石灰化していく人間が歩く。 周りの成分と似た動物が必死に直立歩行する。

杖は離せない。 

が、杖がないと歩けないということではない。 気分のいい日は杖を振り回しながら歩く。 足腰がなえていくのはやむを得ないとして、せめて上腕だけでも鍛えたい。 事情を知らない人が見たら、不満を抱えた老人が風景を威嚇し、元気を誇示しながら踏ん張って歩いている図のように思うかもしれない。


先日、鹿児島市にある村役場から封書がとどいた。 年男、年女の今年の抱負を広報誌で紹介するから、顔写真を添えてすぐに送れ…という。 転ばないこと、生き延びること…そんな間の抜けた抱負を披歴しても皆さんの励みにはならないから返事は出さない。
 



写真説明の前置きが長くなった。 上2枚は1月の日の出、20秒ほどの時間差があるが、同じ日。 色は操作していない。 実際の空の色はこの2枚の写真の中間ぐらいというところか。

下2枚は別の日。 4枚ともパパラギの食堂から。 転ばぬ備えをしないまま室内からいい加減に撮る。
 





虹    1月は虹の月。 と思っているが、今年は天気が悪すぎるのと、あまり外を歩かなかったせいで虹を確認したのは1件だけ。


トカラノジギク (1)     旧暦11月17日、霜月祭りのころから沿道のあちこちでひっそり咲いているノジギク。 亜種でサツマノジギクであろうと思っていたが、それとも違うトカラノジギクと教えてくれた人がいた。 トカラ列島の固有種ということになる。 詳しい話はまだ聞いていない。




工事船     接岸港では建設会社の作業船が砂を降ろしていた。 砂は生コンクリート用のいわゆる骨材。

東側の堤防、通称「東防」 にも村営船「フェリーとしま」(1,390㌧) を接岸させたい…というので工事をしている。 いつごろから接岸できるようになるのか、本当にそのつもりで工事しているのか、特段の説明はないので分からない。  

元日

IMG_2701.jpg   2014年元日の日の出。 0732時、パパラギの食堂から。

水平線から出る日の出の時刻は0716時のはずだった。 水際には雲の層があって、お日さまが顔を出すのに手間がかかった。 それでも、待った甲斐のあるきれいな日の出だった。



きょうは元日、 年男の年の始まりの日。

とは言いながら特段の「計」 は思いつかない。  思いつかないまま、権現さまにお参りして湯泊の露天風呂に浸かる。  


あ! そうそう。 朝一番の雑煮、おいしうございました。  円谷選手の遺書みたいだけど、ほんとうにおいしうございました!



庭のパパイヤに水をやったあと、正月でない日もやっている昼酒、昼寝。  具合のいい時分に覚醒してニューイヤーコンサートの放映時間に間に合った。

ことしの指揮は敬愛してやまぬダニエル・バレンボイム。 付き合いがないから、もったいないながらも呼び捨てにする。


コンサートは存分に楽しんだ。 ラストのラデツキー行進曲では、指揮者が指揮台から離れて演奏者の肩をたたき、手を握って回る。 

客席からは絶妙の間合いでいつもの手拍子、それが割れるような喝采に変わる。 音楽を謹聴するのでなく欣聴して騒ぐウイーンの正月…。



考えてみるとニューイヤーコンサートはローカルの正月行事であった。 世界70カ国に中継されるようになってもローカルのお祭り騒ぎであることに変わりはない。


来年はズービン・メータが指揮するという。 50余年前から、バレンボイムとともに親しんできた人。 まだ学生で、唯一の財産であった手製の真空管ラジオにかじりついて聴いた。  

ズービン・メータは2011年の大震災からまもない4月10日に追悼演奏会を開き、G線上のアリア、ベートーベンの第九を指揮した。 テレビ録画を島で聴いて不覚にも泣いた。 年とって涙腺がゆるくなったせいではなかった、と思っている。  


……余計なおしゃべりをした。 話は「計」 のことであった。 

来年、ズービン・メータが振るのが生中継されるのなら、それまでは生きていて見届けなければならない。 

いざ、生きめやも……。

来年になれば、あと何年か頑張って3度目のウィーンのバレンボイムを見たいと言い出すかもしれない。 



冬の神々

DSC05321 (1024x768) DSC05491 (640x465)  12月(旧暦11月) は神々の季節。  小宝神社(十柱神社) では10日権現の日のお参りがあった後、19日には霜月祭りがあった。 


権現さまには特別な思いがあって、小宝神社(十柱神社) に行く代わりに、昔から権現さまのおわします所とされる窪地に水と花を供えに行く。  花はノジギクとテンニンギク、水は海水をイオン交換で淡水化した高コストの飲み水。


左の写真の一部壊れた鳥居越しに見えるる石碑は「ごんげん」 の場所を示す案内。  この裏の深く落ち込んだ窪地に「権現堂之跡」 というやや古い石碑がもう一つあって、本尊を示す形のあるものは見当たらない。 


権現さまは十柱の一つとして小宝神社の方に移られたという考え方かもしれない。 しかし、もともと形はなかったのでは…と推測している。 

それはそれで、特段の不都合はない。 島に来た当座から神域として畏れ、節目にお参りする流儀をたった独りで守っている。

なんとしても、権現さまの有り難いところは近いこと。 湯泊の露天に行く道の右側にありパパラギの門を出て80数歩。 庭先の氏神さまのような気分で気安く接している。




霜月祭りは来る年の家内安全と豊穣を祈る祭礼で、最後に「お百度参り」 をする。 略式で済ませるための計算式があって今年は13回境内を回ることになった。 

自分も加わるべきだが、かなり歩けるようになったとはいえ歩調が合わせられない。 途中で休むわけにいかない。 やっぱり遠慮して見物に回る。 婆さんたちもご同様で、参列者9人のうち、代表でお百度を踏んだのは4人だけだった。





DSC05489 (640x480)   師走も残りがなくなったが、神々には伺いたいことがいろいろある。 このところの島の変わりようが気になっていて、良くない方向でなければいいが…と気をもむ。


人は減っていく。 年をとって抜けていく分は止めようがない。 若い者が新たに来てくれないという現実については役所もあれこれ思案しているようだが、盲点もある。 若い者は工夫次第で一時的にでも来てくれるかもしれないが、亡くなった爺婆の補充はきかない。

それがどうした…と言われるかも知れない。 ただ、それに伴うコミュニティの空気の変化について、もっと関心が払われてもいいのかもしれない。 島の民情は恣意的に変わる。 数百年数千年の時をへて安定した自然の形状まで、思いもしない変わり方をする。 

 
爺婆がいなくなると分からないことが増える。 小宝島のような記録をとる習慣のない島では忘れられてしまったものが年を追うごとに増える。 忘れられるだけならいいが、下手をすると事実が歪曲される。




半端な年齢のよそ者の爺が嘆いてみてもどうにもならない。 埋め合わせにはならないけれども、せめてもの気休めに、この1年、気づいたことの断片を権現さまに報告しておく。

【気象】 荒かった。 台風の直撃はまぬかれたものの休む間もなく塩風に襲われ、裏の野菜、庭のパパイヤに被害が出た。 去年もほぼ同じ状況だった。 村の観測では気温、気圧とも小宝島が七島でいちばん高く、湿度はいちばん低い。 この傾向はことしも変わらない。 

【火山脈】 湯泊温泉の泉質は良好。 湧出量の変化は確認できない。 もう少しほしいところ。 はしけ作業をしたスロープの右手にある「ネブリの湯」 は温泉センターに引き込むほどの湧出がなかった。 「マショの湯」 は上中下3つの湯ぶねのうち上槽の湯量が減り、このあおりで中槽も冷えて使えなくなった。 最下槽は冷水のまま。 
 隣の村営住宅の敷地から噴気が出た。

【鳥獣虫魚】 5,6月に庭や道に這いだすトカラウナギ(トカラウミヘビ) の子をほとんど見なかった。 ハブは去年1匹も視認しなかったので、要所では注意して観察したつもりだが、今年も死骸を見ただけ。 しかし、減ったという声はなく、小さなハブにかまれた事例が3件あったという。 

 害虫類はすくなく、カナブンの大発生もなかった。 カナブンは体育館の街頭に集中したという話もあった。
 アルゼンチンアリが3年前から這いまわるようになった。 南の集落では以前からいたというコバエ(ショウジョウバエ) は去年からパパラギでも飛び回るようになった。 今年は去年ほどひどくない。
 
 アマサギは群れの飛来を確認するが、島に逗留する事例はほとんどない。 ツバメ、渡りのカラスも例年より少なめ。 メジロ、ヒヨドリは結構な数が飛ぶ。 多いのか少ないのか分からない。 希少種の飛来は目につかない。 1羽単位の迷鳥は結構いて、きょうはチュウサギがパパラギの前庭に舞い降りていた。 

【植物】 牧草地の造成、体育館建設に伴う道路工事などで植生の変化があった。 テンニンギクの群落が激減、代わりに温泉センター以北では少なかったシロノセンダングサ(方言名・ヘンボングサ) などの進出が目立つ。 
 テンニンギクについては島民有志が発電所周辺などに植栽したという人がいる。 今は「牛のえさにならない」 として有害植物扱いする声もあるが、実際にはシロノセンダングサなどの雑草の勢力にかなわない。
 小宝島で圧倒的な勢力をもち、駆除が厄介なのは竹、クサギ、カラムシ。 さらにカタバミ、コウライシバ、ヨモギ…。 このいずれよりもテンニンギクは弱く、除去に手間はかからない、というよりパパラギの庭では増やすのに苦労している。 小宝では環境庁が侵略外来種ワースト100に指定しているオオキンケイギクも他の雑草より弱い。


………写真は、パパラギの前の小路に進出したシロノセンダングサ。 一帯はテンニンギク、レインリリー、スイゼンジ菜などを植栽したが、なかなか根付かない。 遠景の白い花はガザニア。 これは繁殖力が強く、シロノセンダングサの侵略に必死で耐えている気配。









村営船 入港

DSC05473 (1024x768)   19日0759時、小宝港。 16日2300時に鹿児島を出港した村営船「フェリーとしま」 が3日後の朝1時間遅れ(運航ダイヤからは25時間遅れ) で入港した。 悪戦苦闘の航海。 

名瀬に2日間避航碇泊した村営船は小宝を出た後も荒波にはばまれて遅れに遅れた。 鹿児島港帰着は午後6時50分の定時を大きく逸脱し、2300時。 港を一つとばしながら丸3日間かかった計算。


こんな難儀な定期航路は我が国はもちろん世界にもないに違いない。 もしあるのなら教えてほしい。
 


DSC05379 (1024x768) (1024x768)   2日前の17日1200時。 小宝港はうねりが堤防を洗い、下り便は抜港した。 

船と陸では「着けたい」「やめて!」 という押し問答もあったと聞く。 船の上からは港内の荒れようを直接見ることは出来ない。

皆殺し記念日、あるいは売国の日

IMG_2628.jpg IMG_2620 (1024x683)    12月の日の出。 左は7日07時36分、右は6日07時06分、いずれもパパラギ食堂から。




あっという間に師走になって、きょうは7日。 

真珠湾攻撃の日…。 ここまでは誰でも思いつくだろうが、現代の日本を考えるうえで、もう一つ忘れてはならない日である。

ナントカの日とか、××記念日とかいう言い方はされない、屈辱の日、売国の日。 今に続く政治の虚妄、戦後の日本人の卑屈さ、情けなさを象徴する出来事が、この日あった。


1964(昭和39) 年12月7日、航空自衛隊の入間基地で勲一等旭日大綬章がある人物に授与された。

勲一等を受けたのはカーチス・エマーソン・ルメイというアメリカの軍人。 米国空軍の大将である。 功績は“航空自衛隊の育成に協力があった” ということらしい。 


航空戦力は破壊の効率性に優れ、防衛よりも奇襲や報復に向いている。 

それを平和憲法下の日本、専守防衛を至上課題とする日本で“育成” する。
 
一筋縄ではいかない難題である。  独創的な思想と戦略、それを紡ぎだすことのできる天才的な頭脳が求められる。

 

はたして、ルメイなる人物には「専守防衛」 という難題に取り組める能力があったのだろうか。 戦中の日本の状況をいささかでも知っている者は、暗澹たる思いにならざるを得ない。

実は、太平洋戦争中からルメイ少将(当時) は日本でも知られていた。 マッカーサーほどではないが、知名度は抜群。 

「鬼畜ルメイ」「皆殺しルメイ」 と呼ばれていた敵国の軍人と同一人物である。 

一夜にして十万人以上の命が奪われた3.10東京空襲を指揮し、終戦間際の原爆投下を断行し、数十万の非戦闘員を虐殺した。 


ルメイは猛訓練と果敢かつ常識はずれの戦術で爆撃精度をあげた。 これが評価され、米空軍内では破格の出世をする。 

空襲、米側からいえば日本列島の都市爆撃、でも持ち前の爆撃精度の高さで「戦果」 をあげた。 8,500~9,500㍍の高度でB29の乗員の安全を確保しながら軍事目標を爆撃する従来の戦術をルメイは変更した。 1,500~3,000㍍まで高度を下げて精度の高い爆撃に挑む。

目標は軍事施設ではなく無差別。 

爆撃精度の高さは無辜の市民の虐殺に最大限の効果をもたらすことになった。 東京大空襲では一通りの爆撃がなされたあと避難する市民の退路を断つために風下に油がまかれた…という証言がある。

まさに「皆殺しルメイ」。


この人物を戦後19年、航空自衛隊創設10周年にあたり、日本政府は顕彰した。 当時の佐藤栄作首相は、大国の民たるものはいつまでも過去にとらわれず「今後の関係、功績を考えて処置していくべき」 と語ったとか。

嗜虐もここに極まれり、すさまじい倒錯である。 


沖縄をいけにえにしてアメリカへの隷属状態を固定化し、ウソ瞞着を糊塗して騙し取ったノーベル平和賞を返還しない元首相の甥っ子がいま日本の首相をしている。 

羞恥心、知性、とりわけ歴史観は乳幼児以下、大伯父も真っ青になりそうな蛮勇をふるって売国に余念がない。


お揃い…テロ

島を長いこと空けてブログの書き込みもサボった。 何をしてもおわび” の代わりにはならないが、列島徘徊のときの見聞の報告とおしゃべり。   
 


IMG_2324 (800x532)    10月28日0811時、大阪ビジネスパークの地下鉄駅から地上に吐き出される人の衣装は黒ずくめだった。 朝の歩道の乾いた敷石のうえを音もなく移動する黒い隊列。

号令の声はない。 沈黙の分列行進。

それぞれ別の仕事場に向かっているはずだが、不本意ながらも、みんな同じところに行き着くようにも見える。





IMG_2441 (674x402)    文化の日の11月3日1631時、鹿児島市いづろ通り。 おはら祭りの踊り連の一つ。 子どもたちが揃いの服で踊っていた。


県外から団体で乗り込んでくる子どもの踊り連も多いとか。 

テレビでも少女が団体で踊り、それを見て大人が喜ぶ。 これが今、21世紀初めの日本の文化状況!?


うかうかと戦争中に生まれた世代の爺は、未成年まで巻き込んだ扮装や振りの統制を、面白いと思うことができない。 みんなが同じ格好をして張り切ったり、頑張ったりするときは、何か大事なものが失われていく時なのではないか…。 そんなことを思って鬱になる。


今、喪失のとき。 国会では、外国と特権集団の恣意に日本の未来を委ね、70年近く続いた平和をおしまいにする画策が進められている。 

特定秘密情報保護法はかつての治安維持法と同じ。 狂気の沙汰だが、そう思わない人も多い“振り付け社会”。 この程度の生ぬるいおしゃべりも「テロ」 扱いされ、封殺される時代が、程なくやってくる。 



帰還

2日、鹿児島港を出る村営船「フェリー としま」に乗った。 久しぶりの帰還。

11月はほとんど島におらず、大阪から戻ると息をつく間もなく奄美大島に下り、空路鹿児島に移った。 鹿児島では、のんびりしすぎた。 「育爺ィ」に残り少ない時間をとられたりした。 


孫の守などという恥っかき行為は想定外のことで、不覚であり、無念であった。 反省の念があってしかるべきではないか・・・とおもうべきだろうか?


島には島を出た時と同じ海と空があった。 日の出の位置は南に動き、権現様の道ではノジギクの蕾がはじけていた。

IMG_2573 (1024x710)   3日0704時、中の島から平島に向かう船上

IMG_2584.jpg   5日0942時、パパラギから湯泊温泉に向かう路上

迷走

065∇…  …名瀬市街

049∇…  …奄美・大浜海岸   

5日の昼前に小宝島に着く「フェリーとしま」で帰還。  しばらく島にとどまるつもりが奄美大島を経由して鹿児島に舞い戻った。

心ならずも迷走した。  普段にない連れがあって、途中で弱気になったりして能率の悪い動きをする始末になった。



連れというのは生後10ヵ月の乳児と、その母親。   個人の事情を申せば、娘と孫を連れていた。


前からわかっていたことだが、今月後半は「としま」が定期点検のためドック入りする。  三島村の「フェリー みしま」が代船をつとめてくれるけれども、三島航路と十島航路は海が違う。

長い長い道のりに慣れていないということだけではなく、「みしま」は七島灘を乗り切る設計にはなっていない。   ドック入り期間中週2回から1回になる運航も、時化になると延期、欠航になる。 トカラの島々の孤立感はいっそう深まる。


乳児はぜんそく気味で、自然の空気を吸わせたいというのが母親の願望だった。 

ただし、トカラ列島、とりわけ小宝島では保養療養と生命の保証は両立しない。  このことをあまり考えずに島に連れて行き、海の空気をいっぱい吸わせて喜んでいるうちに、だんだんと不安になった。 


万が一のことは滅多にないから万が一なのだが、考え出すとやはり最悪の事態を想像してしまう。 爺だって去年のドック入りのときは鹿児島に避難した。 今年に限って脳梗塞、脳出血、心筋梗塞を起こさないという保証はない。



孫を口実に、「としま」が最後に奄美に下る便に乗った。 

奄美では3泊した。 爺娘孫三代がそれぞれに良い経験をしたと思っている。
 

ゼロ歳児の記憶はほどなく消えてしまうだろう。 しかし、トカラの海の空気を吸い、奄美の人たちの善意と歌に包まれた体験は意識の深いところで息づいていくのかもしれない。


27歳のときに初めて沖縄に渡った。 パスポートの要る時代だった。 米兵は殺気立っていて傍若無人の振る舞いをしていた。

夕まずめの繁華街には路上に「歌舞伎」の舞台が組まれていた。 そこで聴いた沖縄民謡の響きは忘れられない。 

初めて聴くのになつかしい。 

故郷に帰った、あるいは本当の故郷を見つけたような思いがあった。



実は18歳まで生れ在所を動いていない。 薩摩半島の西海岸の漁師町で、ハンヤ節やさのさは幼いころからなじんでいた。 

沖縄の歌と、聞きなれた故郷の歌とはリズムが同じである。 が、そのリズムが沖縄の音階で歌われたとき、血がさわいだ。
 

先祖に奄美・琉球の人がいたという話は聞いたことがない。 いても、いなくても一緒。 琉球も奄美も薩摩もない、同じ海の民である。 必ずどこかでつながっている。



ご先祖は畿内・太宰府からも鎌倉からも関東からも離れたところで、海を向いて生きてきた。 この先、まともに生きていけるか分からない乳児も、ご先祖が生きてきたように気ままに正直に暮らしていけたらと思う。 





古都探訪

大阪に病気見舞いに行って、元気を装う病人のすすめにうかうかと乗り、病人は女将に任せきりにして、あたり一帯を遊山した。 ほとんどが初めての街。 

いずれも東京京都にくらべれば田舎。 しかし、日本人の心持ちの良質な部分は地域性・ローカリティによって支えられてきたのでは…とあらためて思う。 権威権力に媚び諂わなくても人は正直に元気に生きて行くことができる。

大阪のホテルのテレビで天童よしみが「負けたらアカン、負けたらアカンで東京に」と歌っていた。 この歌に込められた思いが、東京を出、南の島を出て初めてわかる気になった。

  



080.jpg 067∇… 078∇…∇…
姫路は若いころ通り過ぎたことがあるが、印象に残るものはなかった。 今度は2泊して当地の空気を吸った。 

城は思いのほか大きく、堅固なつくりだった。 修復工事中で、天守閣を見下ろす視角で瓦屋根を見ることができた。 甲冑の居並んだ部屋があって、威容に言葉を失う。   





124∇…   金沢は雨だった。 城も町のたたずまいも見ない。 21世紀美術館の車椅子に乗って、現代美術の迷路をさまよう。


142.jpg   富山の城壁の内側につくられた天守閣の中は歴史博物館になっている。 係の人の好意に甘えて車椅子を押してもらう。 押してくれた人は、秀吉の薩摩攻めに加わった将兵の末裔なのか、一向宗徒の末裔なのか?




 377.jpg   大阪城。



……知らない街を訪ねたら、まず高いところに登って街のたたずまいを俯瞰するのが若いころからの旅の手法。 
城に特段の興味があるわけではないが、図らずも天守閣を見下ろしてまわることになった。

鳥の目から虫の目になって地上を這いまわると、今回訪ねた土地の人たちはみんな穏やで柔らかさのようなものをもっていた。 福井は雨に降りこめられて駅周辺の人としか接していないが、心に残る街だった。 この街を筆頭に北陸一帯はもう一度訪ねなければならない。

イルカの道

023∇…    朝7時に小宝島をでる船に乗って鹿児島に向かう。 1350時、トカラ列島の最北の港・口之島を出港してまもなく、カツオドリが船に伴走した。

イルカも出そうと思う間もなく左舷前方の海が賑やかになった。



この日、カツオドリとイルカの伴走に立ち会った船客は爺ぃと、爺に呼ばれてレストランから出てきたパパラギの女将の、たぶん2人だけ。

最近の船客はなぎの日にもなかなか甲板に出ない。 みんな船室に転がって、時間の長さにひたすら耐えている。 船と海に飽きてもいいはずの爺と婆だけがはしゃぎまわる。

一眼レフは船室に置いたままだったので、緩んだ底蓋をビニールテープで張り付けた簡易カメラで撮る。 生き物たちの速い動きになかなか追いつけない。
 

021∇…

017∇…

016∇…


間一髪

トカラ列島に向かって北上してきた台風24号は土壇場で西にそれた。 なぜにそうなったのか分からないが、間一髪。 全壊を覚悟したパパラギは今度も生き延びた。 

DSC04831.jpg   7日正午現在の推定位置と予報円。 中心付近の瞬間最大風速は70㍍になるという。

DSC04856 (1024x699)   7日1526時、湯泊。 強風圏に入る直前。 この程度の波は見慣れた風景だが、予報通りの台風だと湾の地形が海の底まで変わってもおかしくない。

DSC04865 (1024x748)   7日1641時。 1600時ごろ強風圏に入った。 1700時までに雨戸を閉める。 窓ガラスは塩がべったりと付き、すりガラスのようになった。



DSC04922 (540x387)   台風24号は8日0130時ごろ小宝島に最も近付いた気配だった。 しかし、風はそれほど吹かない。 期待していた雨も降らずに夜が明けた。 台風は家も庭も草木も塩漬けにして、雨雲もそのままつれて北の海に去った。

DSC04921 (800x546)    8日0814時。 一夜明けたら何事もなかったような庭のたたずまいがあった。 テーブルと長椅子は風で飛ばされないように昨日のうちに伏せておいた。

IMG_1549 (1024x683)    8日1401時、波しぶきに埋没していた中の門(向かって左側) と沖の門(右側) が輪郭を現した。 空と海が青さを取り戻す。


24号

台風23号の後を追うようにして24号が迫っている。

屋久島の方の口永良部の漁師が「今度ののは今までと違う」と人づてに伝えてきたのは、5日前のこと。 これまでとは違う覚悟をせねばならぬ。




漁師の観天望気は狂いがない。 気象庁などの今日の予報より、漁師のおととい、先おとといの予言を信じるのが昔からの自分の流儀。 それで間違ったという記憶はない。

あすは2階にいたら飛ばされるのか、家が倒れたら1階にいては潰されるのか、浸水はないのか…。 そんな相談を女将と初めてした。




午後1時ごろ防災無線のスピーカーを通じて島内放送があった。 村のインターネット回線は通じなくなったという。

春夏風冬

IMG_1452 (1024x683)    前に小宝島には秋がない…と書いたことがある。 ギラギラと陽光が照りつける夏がいつ終わるかと思っているうちに、ある日気がつくと、冬の冷気が忍び寄っている。 真夏から突如冬になる。


しかし、昨年になって忘れかけていたことを思い知らされた。 息をつく間もなく6つの台風が近づき、中心はそれたのに島をあおり、石も土も家も草木も塩漬けにした。



奄美では前例のない台風連続被害と大々的に報じられ、形ばかりにしろある程度の対策、救済がなされたらしい。


パパラギでは庭と裏の菜園の野菜が壊滅的な打撃を受けた。 このことを鹿児島市にある村役場の人に伝えたら、いちおう耳を傾けるふりをしてくれた。 耳は傾けても、話の内容が耳に入った気配はない。



役所が何かしてくれるとは初めから期待していない。 長いこと放心状態が続いて、裏の菜園はほとんどほったらかしにした。 新しい種をまく気力が失せた。 

女将が気を取り直して土越しの作業に本腰を入れ始めたのは、先月に入ってからのことだったろうか。 しかし、今月も半ばに入ると台風が息を継ぐ間もなく通り過ぎるようになった。

いらい、間断なく風が吹く。 波が騒ぐ。 いつの間にか烈風の季節になっていた。



そう、小宝島には秋がない。 その代わり、烈風と荒波と塩漬けの季節がある。 

……春夏風冬。
  


島へ

IMG_1363 (800x514)    今度の鹿児島滞在は思いのほか長引いた。  台風18号が迫っているとの報で、急きょ村営船「フェリーとしま」に乗ることにした。

13日1520時、鹿児島港南埠頭。 荷物を村営船に積み込むために港に行ったら桜島が噴いた。 灰まみれになる前に鹿児島を脱出せねば…。





IMG_1371 (1024x683)     翌14日1104時、船は小宝島に迫る。

IMG_1376 (800x795)    同1128時、小宝港。 うねりのなかでかけられた急なタラップを降りて、安堵したところでロープが切れた。   一昨年の秋は、タラップがかけられる寸前のところで、ロープがはじけとんで接岸できなかった。 

小宝港では直径10センチほどのロープ6、7本を張る。 港内にうねりがあると荒れ狂う巨鯨をつなぎとめるような様相。 ロープは年に2本か3本切れて飛ぶ。


g
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。