じじらぎ

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帰還

小宝島へ    29日1221時,小宝島が迫る。 時化で減速運航になりそうとのことだったが,船足は落ちないまま一路ひたすら南下した。 

上陸した島は人影がなく,ひっそり。 ただし,きょうのひっそりはいつもと違う。 ヒチゲー(日違い) という外出を忌み謹慎する特別な日。 




冠雪     28日1115時,きのう出港の日午前の撮影。 桜島は冠雪している。

村営船「フェリーとしま」 は赤い国際信号旗を掲げていた。 この旗は「危険物を荷役中」 のしるし。 何の危険物だろうか?

人間の「危険物」 は,したたかに酔って千鳥足で午後11時前には自力積み込みを完了した。


桜島の日の出    日付はさらにさかのぼって26日0728時。 海辺で日の出を待つ習性は鹿児島に来ても変わらない。 

「桜島のズタンバラかぁ(中腹から)月がハッ出た」 という歌が昔あった。 日の出はズタンバラからではなく裾野に近いところから顔をのぞかせた。
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鹿児島詣で

26日の船で鹿児島へ。 31日まで九州本土にとどまることになりました。

色々と面白いこと面白くないことがあり、携帯電話で書き込みができないこともないんだけれども、古い携帯は操作がおそろしく面倒。 手元が狂ってボタン一つ押し間違うと振り出しに戻ってしまう。 

どうにもこうにも、敬老精神に欠けた機械は麻痺の進んだ指先になじまない。 しばらくはブログを原則お休みとさせてください。

被災地から

釜石市からのレポート。撮影者は内陸部の花巻市に住む人。(写真はクリックすると大きくなります)

∇…釜石の魚市場前、外国貨物船 ∇…securedownload[1]   釜石市の魚市場の近く。外国籍の大きな貨物船が道路をふさいでいた。

∇…釜石市民会館    釜石市民会館。

∇…釜石市唐丹町、学校や水産物加工場があった     釜石市唐丹(とうに) 町、学校や水産加工物工場があった。

∇…唐丹町では山の手まで津波が駆けあがった   唐丹町では山の手まで津波が駆け上がった。


∇…職員の3割が無くなった陸前高田市役所    職員の30%が亡くなった陸前高田市役所。津波は3階まで押し寄せた。

9.11…安全圏にいる者

同時多発テロから9年。イラク・ボディ・カウントというサイトを久しぶりに見たら97,767~106,703人という数字になっていた。この数字はいつまで増えつづけるんだろう。

厚生労働省の村木厚子元局長に無罪の判決が言い渡された。動機が分からない不思議な事件だった。

加計呂麻3日目

小宝島では支障なく使えたドコモの無線通信が名瀬ではかったるくて使い物にならない。

加計呂麻島では不意に切れる。書きかけのブログも飛んだ。


なぜか生間(いけんま) では正常に動く。動くうちに日記の頭出しをしておく。

3日未明、星空が見事だった。外に出ても虫はほとんど気にならない。午前5時半、近くの山辺りからアカショウビンがキュロキュロと鳴く声がした。

きょうは朝8時台のフェリーで奄美本島に戻る。あと、歯の治療など野暮な用件がいろいろ、野暮でない楽しい計画もいろいろ。

加計呂麻2日目

∇…5マイルの日の出     島の中部・伊子茂(いこも) 宿の夜明け。外海のはずなのに湖のような静けさ。午前6時過ぎ、向かいの稜線から日が昇りだした。


∇…和の夢      連泊したかったが、ほかの宿も見てみたい。生間(いけんま) の部屋数がわずか2つという民宿に、またも飛び込み。 建物は古い普請なのかと思い込んでいたが、しゃれた造作で築3年という。ロフトの天井も結構な高さで、フェリーの発着所に連なる海が見える。

∇…夢の膳      厚切りの刺身だけでも腹が満ちた気分のところに、“しんかん” という蓋つきの汁が出た。 島の正月料理という。新年をことほぐ羹(あつもの) ということで「新羹」 と書くのかもしれない?        

加計呂麻島

∇…大島海峡    名瀬から瀬戸内町古仁屋へ下り、フェリーに乗った。行く先は加計呂麻(かけろま)。大島海峡は船の往来でにぎわっていた。視界のなかに動いている船は5隻。

∇…島の果て (2)   フェリーを降りたその足で呑之浦に向かう。20余年来の宿願だった。Sさん、ひとり娘のMちゃん、奥さんのMさん、いまはみんな石の碑の下。

∇…しんよう    特攻艇“震洋” が復元されていた。船首に取り付けられた長細い鉄板で舵(かじ) をとる仕組みなのか? 

∇…墓から見た呑之浦   墓碑の下に見える文学碑と呑之浦の海。



∇…12畳    宿は「5マイル」 という風変りな民宿に飛び込んだ。案内された部屋はなんと12畳。庭の先が砂浜と遠浅の海になっていた。

∇…5マイルの庭    宿の敷地にはいろんなものが植えられていた。ユズなどの柑橘類、ニガウリ、ヘチマにマメ科らしいツル植物。ローズマリーやバジル、パパイアも勢いがいい。菜園は奥にあって、野菜類もかなり自給している気配。

!!

午前3時発表の天気図を見た。台風18号は伊勢湾をうかがうところにあって上陸寸前。勢力はほとんど衰えていない。

台風に慣れていないところでは、おそらく10年か20年かに一度の災厄。救いは動きが速くなっていることだけだが、台風の強さを思うと慰めにならない。 あゝ、死ぬ人が出るな…と嘆息した。

島は静かになった。「フェリーとしま」 は予定通り、今夜出港できそう。

鹿児島へ

∇…299   村営船「フェリーとしま」 は午前7時13分に停泊地・宝島を折り返し出港した。30分後,小宝島に接岸した船に乗る。ウソのような凪だった。

5月5日(立夏)

∇…006

06:15……気温23度、湿度62。雨がぱらついてきたが、西の空は明るい。

島酔い

∇…003  06:00……22.5度、湿度59%、曇り。 東の海上に雨雲がある。海面を雨が叩いているに違いない。

∇…011  やがて沛然(はいぜん) たる雨になった。島は東に向けて航行し、雨雲の下にはいったらしい(!?)

∇…013  雨がややおさまった。しかし、当分やむ気配がない。

風はなく海は凪。 それなのに、なんとなくぼんやりした気分なのは“島酔い” か?

出航延期

久しぶりに寝坊したら、天気が変わりつつあった。空模様がおかしいと思う間もなく、たちまち荒れてきた。島じゅうの木々と草が騒ぐ。家もきしむ。

午前8時半過ぎ、村の防災無線が「フェリーとしま」の出港をあすに延期する旨伝えた。昼から風が吹きつのり、島は孤立して時化の海を漂流している趣。

朝いったん庭に出た老犬・サンを室内に戻した。サン婆さんは、天気の悪い日の過ごし方にも年季が入ってきて昼寝に余念がない。ジジも寝そべって、ゆうべから切れ目もけじめもない読書三昧。

ほかにもっと有意義なことをすべきかもしれない。しかし、頑張って何ごとか為になることをすると疲れる。疲れると怒りっぽくなる。余計なことを考えずに、気を入れて怠けることにする。

午後3時過ぎ、波浪と強風の注意報が出された。しかし、悪天候は長続きせず、明日午前には快方に向かうらしい。待てば海路の日和ありというが、1日ならば待つうちに入るまい。

絶好調、絶不調

良いことが1つ、悪いことが3つ…。単純計算では差し引き2コの“赤字”、不運強勢状態。良いことを大げさに有り難がって、心の中でつじつまを合わせるように努めてみる。そうしないと鬱の気が生じそう。

良いことは温泉、このところ絶好調である。 悪いことは写真機。同じメーカのものが3台あって、そのすべてに不具合が生じた。絶不調というほかない。

小宝島の泉源は不安定である。冬場は近くて足場の良い湯泊温泉が、ぬるくなって具合がよくない日が多かった。このため、昨年は珊瑚礁の岩を這うようにして奥のモショの湯まで出かけた。

ことしは原因不明の様変わりがあった。なぜか湯泊が好調。気まぐれな湧出量も最近は勢いがいい。ここは宿から2分も歩けば行き着くのでありがたい。

雨風にさらされて湯が冷えるのを防ぐために、ビニールシートで覆いをしてくれた人がいた。これでかなりの程度救われた。今、このビニールシートは熱すぎて入りにくくなったいちばん上の槽を2つに仕切るのに使っている。

いちばん熱い泉源槽の下部分だけを小さく区切って早く冷まそうという工夫。ぬるくなったら仕切りを取り払えばいい。かくて、コンクリートで仕切られた槽3つに、ビール仕切りを加えると、温度が違う4つの区画が出来た。

17日昼前、湯温を測ってみた。一番下の槽が摂氏41.5度、真ん中の槽が43.5度あった。真ん中の槽が万人向けの湯加減だが、私の好みでは物足りない。

ビニールで仕切った上の泉源槽を、栓を抜いて真ん中の槽とつなげ、お湯もバケツで移して46度ほどにした。自分にとっては、これが“極楽”。熱い湯に入ると長湯しないから、湯あたりもしない。

泉源につながるビニール仕切りの上の方に温度計を入れたら、すぐに50度に達した。手持ちの温度計では最高の目盛りが50度。それ以上は測定不能である。

とにかく良いあんばい。ぬる湯好きの人は最下段の槽を使えばいいし、50度以上ないと温泉にはいった気がしないという変な人(!?) はビニール仕切りの上の泉源槽で茹だればいい。

∇…010  写真は手前から泉源、ビニール仕切りの熱め、コンクリート仕切りの向こうが中くらい、さらにその向こうがぬるい槽。

海側の2本の柱はシャワー施設。突如つくられた。 頭を冷やすのに重宝しているので、予告なしに作られたことをとやかく言うのを控えている。そのかわり今日は写真機について小言を言う。

また壊れた。ご覧のとおり、海側の槽は下品な桃色がかかっているが、実際の色は硫黄の成分を思わせるモスグリーンである。コンピューターの修整でも、本来の色に近づけることは出来なかった。

このカメラ、液晶が妙な揺れ方をして、とんでもない色に写ることが前からあった。一定方向に思い切り叩いて衝撃を加えて正常に戻し、脅したり宥めたりして使ってきた。しかし、物理的な力による一時的な矯正はもう効かなくなった。

これより大きなツァイスのレンズを使った写真機は温泉場には持ってこれない。いつの間にかネジが2本飛んで、ガタついてきた。すき間から温泉のガスや蒸気を吸い込むと、それが致命傷になりかねない。

このカメラ、以前にはメモリーのチップを読み込まなくなった。メーカーに問い合わせたら修理に1万8000円かかるという。素人考えでは単純な接触不良以外に原因が思い当たらない。

故障の原因になりそうな衝撃を与えた覚えはない。大事に使ってきたカメラの不意不測、というよりも不当で理不尽な不具合。その修理に1万8000円とはあんまりではないか…と泣きついたら、そんなら半額でいい…という。

これがようやく現役に復帰、それほど日が経たないのにネジ2本が抜けて行方不明。レンズとボディの接続部分が緩んできてガタガタ揺れる。何とも落ち着かない。

やむなく同じメーカーのビデオカメラを静止画撮影に出動してもらうことにした。これでしばらくしのげると思ったのが大間違い。突如、液晶画面が真っ暗になった。どこにレンズを向けても闇夜のカラス。

ファインダーを覗けばほかの機能は正常らしいが、画像の削除やリモコン操作はファインダーでは出来ない。結局、手持ちのカメラ3台がすべて島では修理不能という情けない状況に陥った。

メーカーの名前は敢えて公表しない。もしメーカーの方がこのブログを見たら、そっと教えてほしい。…ひょっとしたら私によほど悪いところがあって、しかるべき罰を受けているところなのかどうか?

あさって

午前9時45分、防災十島村の放送があった。 「きょう出港予定の『フェリーとしま』は、あす悪天候が予想されるため、出港をあすに延期します」。

あすが悪天候だから、出港をあすに延ばす…という妙な話。これには解説が必要だろう。

「フェリーとしま」は午後11時50分に出港する。あすの天候の影響を受けるのは10分間だけ。あしたは深刻に考える必要がない。あさってが問題。

防災無線はコンクリートの柱に取り付けられた拡声器で伝えられる。今風のハイカラな言葉づかいをすれば「リアルタイム」。

数百㌔の海を隔てた村役場でマイクロフォンに向かう人の気分や体調もそのまま伝える。その日の放送者が寝起きが良いかどうか、風邪気味かどうかも分かる。

肉声がリアルタイムで伝わって、語るものと聴く者の心が通い合うかどうかは、また別。最初から、それを企図していない。それと、一方通行という宿命はいかんともしがたい。

島の事情に詳しくない者が聴くことも想定していない。分かる人にだけ分かる。それで不都合はないようなものだが、島暮らしがまだ浅いころには戸惑うことがあった。


日の出写真館

∇…036  日の出に向かってやたらにシャッターを切る、しろうとのインチキ写真館はやる方も飽きてきそう。そろそろ店じまいした方が良いのではと思っていた。 それが、今朝の日の出を見たら、やっぱり写真機を持ち出してしまった。

∇…039  振り返って西側の空にレンズを向けた。時刻は1分進んでいるけれども実際には10秒以内の時間差。きのうより月はずっと高い位置にあった。

日の出だけ示すと月と勘違いされても仕方のない写りになるのは、写真機備えつけの自動露出装置のせい。通常のオートで日の出を写すと露出はシャッター速度125分の1秒、絞りF4.0くらいになる。

焦点を合わせる範囲が中心部のやや広い区域になり、被写体の明るさはその平均のところを読み取って、太陽はまぶしいまま。いわゆる雪景色の白ウサギ状態になる。

私のカメラでは「P」、つまりプログラムという露出の選択肢がある。これは画面中心部の狭い区画に焦点と露出を合わせる。太陽の色と輪郭を鮮明にとらえるのには具合が良い。

暗い画面になり、夜の風景の様相。しかし、暗過ぎては困るので、コンピューターに記録したあとから明るさを少し加えて補正している。撮影時のシャッター速度は1600分の1、絞りF8.0。

写真に慣れた人には分かりきった無用のおしゃべり、慣れない人には訳の分からぬ念仏…。余計なおせっかいをしたかもしれません。

交代

∇…093  西の空に浮かんでいた月が竹の山(102.7㍍) の中腹に沈む。東の方角、小島の立神のような存在の中の門(もん)では日が昇ってきた。

∇…092  選手交代。時刻は午前6時5分。日の出はだんだん早まる。12日は予想していた通り強い日差しが照りつける夏のような天気になった。

ピカピカのⅠ年生

入学式について、「懐かしい」というコメントを内地に住む“熊ちゃん”からいただいた。なるほど、若い人たちにとっては入学式の思い出が鮮明であって当たり前であろう。

小宝島分校の入学式を見ながら、自分のときはどうだったのか思いだそうとした。手がかりが何もない。ほぼ空白。

わずかに、学校には知らない子どもがいっぱい居たという記憶がある。それも映像的な鮮明さはなく、高ぶった気分があったような…という程度。

児童総数2000余、1学年10学級。間違えないで、どうやって自分の教室に入ったのか? 自分の教室が見つからなければどうしようと心配した思いの痕跡のようなものが残っている。

ということは、母親が付き添っていなかった可能性がある。親がついてこられなくてもおかしくない事情が当時はあった。そんな時は3歳上の姉が母親代わりをした。

年寄りの愚痴めいた昔語りだけれども、若い世代にぜひ知っておいてもらいたいことがある。日本は無謀な戦争を世界に仕掛けて、徹底的にたたきのめされた。

そのくらいのことは承知してるヨ…などと言わないでほしい。それで、どうだったか…ということを語りたい。

国家が無暗に増産を奨励して、あげくに戦争に負けた。そのままでは使い物にならない半端な“軍需物資”の在庫を大量に抱え込む形になった。

食糧や燃料などの隠匿可能な物資であれば横流しして儲けることができた。しかし、戦争に負けたとたんに、穀つぶしと化した“軍需物資”もあった。子どもである。

親たちにとって子どもが可愛くないはずはない。しかし、暮らしは逼迫していた。食うものがない。タッモンが無かれば、タッモンも無か…という状況。

……タッモンとは焚くものの訛り、前のタッモンは薪、後者は鍋に入れて焚くべき材料のこと。逆だったかもしれないが、同じこと。貧窮極まれる状況に変わりはない。

戦勝国のソビエトロシアでさえ、膨大な数の餓死者を出した時代。戦後まもなくの新入生は飢え死にこそ免れたが、次なる難題に直面した。衛生である。

とにかく汚かった。不衛生、不潔の見本のような餓鬼が白昼の公道を徘徊し、がれきと錆びた釘が埋まった焼け跡の空き地を飛び回っていた。

自身の体験を暴露すれば、目を覚ましても朝の風景をすぐには拝めなかった。膿とも眼やにともつかぬものがこびりついて瞼(まぶた) が封印されていたのである。

トラホームをやっと治したら、今度は訳のわからない結膜炎のようのものをもらって帰った。休む間もなく眼瞼再封鎖。 従兄は風眼にかかり、片目だけ牛乳瓶の底のような眼鏡を死ぬまで手放せなかった。

体内には虫がいた。検便の結果、回虫だけでなくギョウ虫までいたことがある。これは良い方。南国名物のフィラリアまでもっている者がいた。さらにご丁寧なのはサナダ虫まで飼っていた。

栄養不足でみんな青洟をたらしていた。たらしたままでは具合が悪いので袖口で拭うと、やがて半端に乾いたものがピカピカと光沢を帯びる。……ピカピカの1年生。

ピカピカは新入生だけではなかった。転勤族の金鉱山の子ども除いて上級生も全員ピカピカ。栄養不良で皮膚病のかさぶたを北朝鮮の高官のベタ金勲章のようあちこち張り付けた子もいた。

不思議なのは、そんな衛生状態の子どもがみんな丈夫だったことである。校長先生のありがたい訓示が果てしなく続いても途中で卒倒する子はいなかった。

話があと先になったが、12年後には取り壊すことになるすし詰め教室用の校舎は私が入学した年に建てられた。講堂や体育館まではとても手が回らない。全校朝礼は炎天下の校庭に裸足の子2000人を整列させて厳かに執り行われた。

それで倒れる子がいなかった理由については、いずれ考えてみたい。特筆すべきことは私が入学して4年後に母校が文部大臣表彰を受けたことである。栄えある「学校保健優良校」。

駆虫薬のマクイ(海人草) を何度も飲まされた成果があらわれたのである。海藻類は嫌いではないが、マクイはなんとも言えない味がした。回虫が大いに迷惑して、居心地の良かった腸から脱出を決意する気持ちも分かる気がした。

ともかく、ちょっとだけまともになって、校長先生が天皇陛下に拝謁を許されるほどの大手柄だった。それほどまでに“どん底”状態がひどかったということであろう。

自身では綺麗になったという実感はない。ただ、4,5年後に入ってきた、いわゆる団塊の世代が小ざっぱりした身なりをしているのにはびっくりした。後輩全員が金持ちの国から山海留学に来たという感じ。大げさな言い方かもしれないが人種まで違うような気がした。

日本という国が変わったのである。本当に豊かになり、ものに不自由しないことが当たり前になった。
それで、今どうなっているか…という話をするのが、実は今日の本題だった。

しかし、牛のよだれのように話はだらだらと尾をひいて、本番に入る前に書く方もくたびれてしまった。読む方はもっとダレているはずである。これ以上の長話は迷惑行為。区分けして続きはいずれ。

4月の日の出

∇…136 ∇…154  3月は荒天つづきだった。月が変わり、海はなぎた。梅雨が終わり、夏がきたような日和になった。

今週は鹿児島港を月曜、金曜の出帆のほかに「水曜出し」の便が設定された。翌9日(木曜日)には、これまでよりも1時間近く早い午前11時半に小宝港に村営フェリー「としま」が入港した。


「島の学校」に間違いがありました

小宝島分校の新しい構成について書いたきのう5日の書き込みに間違いがありました。児童生徒数は9人ではなく、実際には2人多い11人でした。申し訳のないことです。書き込みの訂正は今済ませました。

……子どもの顔を一人ひとり思い浮かべながら計算したつもりだった。それに漏れがあった。己のボケをもっと自覚しないといけない。

誤りはきょうの入学式に参列して気づいた。図らずも児童生徒の欠席が2人あったが、偶然の符合。これは私の責任ではなく、島が僻遠の地にあるという宿命のせいである。

とにかく、心のあたたまる入学式だった。初めて学校にはいった小学一年生の教室も覗かせてもらった。新入生は2人。ともに目が輝いていた。

島の学校

∇…027
小宝島の人口が増えた。教職員の定期異動で4人が去ったかわりに、家族連れで赴任する先生たちもいて前よりもにぎやかになった。

2日着のフェリー「としま」では奥さん子ども連れの先生2人が着いた。おかげで分校は小学生2人、中学生2人が増える。“子宝島”がいちだんと賑やかになった。

4日には新任の若い先生2人と東京からの山海留学生がやってきた。港にはうねりがあって岸壁での“綱とり”は波しぶきを避けながらの作業になったが、2日前に来たばかりの先生たちも頑張っていた。

後ろから見るヘルメット姿は、ずっと前からなじんできた仕事に余念がないようにも見える。奥さん方、子どもたちも岸壁に歓迎の横断幕を掲げ、以前からの島びとと一緒に遅れて島に入ってくる先生と生徒を迎えた。

7日にはあとひとり最後の赴任者がやってくる。6人目。転出した先生は4人だったから2人増。 小学生が4人から7人に増え、中学生が3人から4人に増えることに対応した増員。

これでも先生の要員体制に不足があって、島にいる有資格者に教壇に立ってもらうよう頼んだ。これで児童生徒11人に先生9人の体制になる。

児童生徒11人の内訳は混乱しそうなので触れない。山海留学生の入れ替わりのほかに、小学生の“Uターン”もあった。島を良く知っている家族が島の教育環境を見直したためだと推測している。

【綱取り作業に出てきた先生5人。右端の2人が初出動の新任先生。今度の教員異動で綱取り要員はあと2人増強され、人繰りに余裕が出てきそう】





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