じじらぎ

  

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カンナレどんの田園交響曲

日本国内の、どこかの中学校に通う少年がブログを始めた。ラルフ(ralph) と自称している。孫の世代の少年が爺ぃと前後して電子通信の世界に足を踏み入れた。

ラルフ君の最新の書き込みは、学校行事でオーケストラを聴きにいったという話。なるほど、今どきの学校は心憎いはからいをする。自分が中学生だった頃とは雲泥の差である。でも、昔が酷いだけでもなかった。

カンナレというのは鹿児島なまりで雷のこと。語尾の「どん」は雷がドンと落ちるというのとはかかわりがない。殿のなまり。セゴ(西郷)どん、ツゴ(東郷)どん、イッツ(伊藤)どんのどんと同じ。雷様というときはドロメッサアとも言った。

カンナレどんは中学2年のときの音楽教師のあだ名である。学級担任もカンナレどんだった。音楽室の壁に貼ってあった作曲家の肖像のなかでベートーベンに似ていた。寡黙だったが、不思議な存在感があった。

その前、1年ときの音楽担当はチャイコフスキーに似ていた。神経質だったが、繊細さを感じることはできなかった。チャイコフスキーの憂愁とも感傷とも違う、悲哀と憤怒を抱えていた。子ども嫌い、とりわけ男の子を憎んだ。

授業中に騒ぐと、前に並ばせて堅い革底のスリッパで殴った。口が切れて血が滲み出しても、たじろぐ風はない。この方式の制裁は、帝国陸軍の兵営で行われていたということは後に知った。

チャイコフスキーは恐怖心を刺激し、自尊心をくじくことを統制の手段としている趣だった。悪そうな子を狙い撃ちにするように指名して、学級55人が注視するなかで歌わせる。変声期の餓鬼のことだから、ただでさえ声がでない。後遺症はいまだ癒えず、爺ぃはいまなおカラオケ嫌いである。

ベートーベン、ことカンナレどんは授業の初めに基本音階を全員で発声させるだけ。あとは音楽家の話をして、レコードをかけてくれた。すばらしい音の世界があった。それも際限がない。あんなに嫌いだった音楽の授業が待ち遠しくなった。

カンナレどんは怒ると顔が赤くなった。それだけで、ざわついていた教室の空気があらたまった。雷を落とすまでもない。 実際にカンナレどんが大声で怒声を発する場面に遭遇したことは一度もない。

しかし、いよいよ間違いなく雷が落ちる…と覚悟したことがあった。学級の男子生徒のほとんどが自習時間に集団脱走したのである。 

何の教科か忘れたが、時間になっても教師が来ない。つまらない授業が始まる覚悟が仕上がっているところに急にキャンセル。教師が勝手をやるんなら、こちらも少々ハメをはずさしてもらおうではないか…。

教室を出て、勢いで校門をすり抜け、次の授業が始まる直前に、何食わぬ顔で教室に戻った。ばれることがないと思ったのは餓鬼の浅知恵。カンナレどんの顔が赤くなっていた。

首謀者はほかでもない、餓鬼の頃の爺ぃだった。ひとり放課後の教室に残された。ガランとした広い教室の真ん中あたりの席で、長いこと待たされた。

カンナレどんは蒼い顔をして現れた。黙って正面の教壇の椅子に座る。 しかし、雷は落ちない。いつまでも重苦しい沈黙がつづく。

やがて蒼い顔の鼻のあたりが赤くなった。大きな目がうるみ涙があふれて頬を伝っていく。それでもカンナレどんは黙っている。

ようやく口を開いて、いつもの低い声でひと言。「君がこんなことをするとは思わなかった」。その後も、再び長い沈黙。 そして、もう一度ひと言、「もういい。帰りなさい」

音楽の楽しみという一生の財産をくれたカンナレどんに、卒業後にお会いすることはなかった。同級生に消息を聞いても、だれも知らない。ご存命であれば百歳を超えているはずである。

この先も再会はむずかしいだろう。雷さまの居所はもともと天である。爺ぃは友だちがたくさん待っている地獄に行く予定。もしも天国から交響楽団が慰問にきて、田園交響曲でも演奏することになれば、ドラムを前にして無愛想な顔で座っている楽員はカンナレどんに違いない。
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気がついたら1月も終わり

2009年の1月も今日で終わり。時が過ぎるのが早い。

きのうは宿の女将が「○○先生を呼ぼうか」と言いだした。むろん、異論はない。ほかの用事もあって分校まで自転車を漕いでいき、その旨を伝える。先生は「良いんですか」と相好を崩した一瞬のちに困惑した顔になった。

なんと、この日が先生の誕生日だった。受け持ちのK太(小学1年) が教員住宅にお祝いに来たい…と言っていたのを思いだしたのである。

先生は男やもめ、K太は母子家庭。ほおえましい図であるが、2人だけでは日々の教室の風景といっしょ。侘しくもある。2人とも呼ぼうということになった。

女将は急いでケーキをつくった。師弟ともども、喜んでくれてなによりだった。K太は2階からしだいに暮れていく海の風景をみて興奮した。初めての経験という。考えてみると公共施設を含めて島に2階建てはない。

今日も未明に起きだした。外は風が吹き荒れ、木造の2階建てを揺する。寒暖計をみると19℃。冬でもない台風でもない。妙な日が明ける。きのう鹿児島港からついに錨をあげなかった村営フェリー「としま」は、どうするんだろう。

民宿の話の訂正と補足

鹿児島県の「総合観光サイト」 を開いてみたら、これに資料を出していない…と書いた中之島の民宿が掲載されていた。年明け早々に鹿児島市で見たときは出ていなかったので、その後に追加されたものらしい。

ここは1泊2食で宿泊料を紹介していた。口之島に次いで鹿児島市に近く、その分帰り便までに時間的な余裕をもって1泊できるという立地。船に乗るときに準備した弁当で昼食を済ませることができるし、海岸に降りると商店もあるから、このような示し方の方が親切かもしれない。

1泊3食1万円余…としたのは、トカラ列島の他の民宿の表示の仕方に合わせる意識が働いた。金額は最近泊った人から聞いた。1万円余の「余」の部分は百円台の金額。宿泊料については、やはり電話で直接問い合わせた方がいいだろう。

「旅館」を名乗っているところが1軒だけある…と書いた。後で調べてみたら、部屋が5室あるから旅館業法の扱いも旅館になる。県のサイトではこれも民宿の扱い。ほかの島では5室、6室の「民宿」がある。利用者にとっては、名称をどう名乗ろうと構わないことで、これによる不都合はなさそう。

観光の夢と嘘…民宿って何だろう? の1部書き直し

民宿は法律上、旅館業ということになっている。不特定多数の旅行者に寝る場所と食事を提供する点では都市部や観光地などにある旅館・ホテルと変わらない。それでも、どこか趣を異にしているところがある。

成り立ちから言えば、土地々々で農業や漁業などの生業を営みながら、空いた部屋を旅行者に提供したのが始まりらしい。事業として体裁をととのえているはずの旅館・ホテルよりも宿料が安いというのが一般的な通念。

トカラ七島(鹿児島県鹿児島郡十島村) の宿20余軒はいずれも「民宿」という呼称でひっくるめられている。島ではボランティアの「民泊」、村営宿泊所の時期があった。それが旅人宿としての構えになった。本土の旅館・ホテルのように、いわゆる「心のこもったおもてなし」(!?) を付加価値として宿賃に上乗せようとする意識は薄いようにみえる。

うち中之島の1軒は「旅館」と称している。ほかの「民宿」と宿賃に大きな差をつけるようになったとは聞いていないので、それなりの心構えを示したのではないか…と考えている。宿賃が安いことこそ実のある「おもてなし」かもしれない。

中之島にもう1軒、今年から宿料を1万円余にあげたところがあると聞いた。ここも宿に直接確認したわけではないが、事業としての意識が他の「民宿」より明確なのだろう。鹿児島県が出している宿の紹介には資料を出さず、自前のホームページをもっている。

七島の宿の宿料は、1泊3食7000円前後と思っていて差支えない。県のホームページでは6000円から…と表示しているところもあるが、相部屋を想定した最低料金ではないかと推測している。

部分的に耳に入る情報では、今まで6500円でやってきたところが7000円になっている事例もあるし、7500円に値上げしたところもある。村のホームページでは宿料は表示せず、直接問い合わせろ…という形。横着なようだが、この方が良いかもしれない。

1泊3食になっているのは昼食まで押し売りしている訳ではない。どの島でも食堂や居酒屋の類はない。商店があっても扱っている商品は限られており、時間営業。保存のきく好みの食糧を持ち込まない限り、客に胃袋を自主管理する自由はない。

この辺の事情を考えると、宿代1万円でも高くはないだろう。宿代7000円で、客に最低限の便宜を提供しようとすれば赤字になる。村の基幹産業の3本柱のうち2つは畜産と漁業だが、牛は鹿児島市場に船便で出荷し、肉類は鹿児島市内の商店や生協に注文して船で運んでもらう。七島灘では船を出せる日が少なく、漁獲は不安定。

本土の民宿の強みは、食材を流通機構を通さずに低コストで確保できることだが、島で漁業を兼業している民宿は少ない。大量仕入れで、コスト削減をはかるのも難しい。潮風にさらされて、施設、機器類の劣化は早い。冷暖房の室外機の類は手入れを怠れば3年、貴重な淡水でマメに洗っても、せいぜい7,8年の寿命。

村の基幹産業3本柱のもう1つは「観光」という。しかし、村内の民宿は観光事業として認知されているのかどうか? 産業としてなりたっているかどうかも疑わしいところがある。さらに民宿経営の内側に視点をおくと、もう1つ疑念がわく。

村は「観光」をただのうたい文句にして、真面目に考えていないのではないか? 特段の支援を望んでいるわけではない。せめて実態を知ってほしい。民草が働く姿が見えまいまま杓子定規の扱いをしてしまうと、結果的には侮蔑や邪魔だてと受け取られても仕方のない様相を帯びてくることがある。

私が投宿している小宝島の「パパラギ」の創業者は民宿が産業としてなりたちにくいことを承知していた趣がある。14年前に6畳の和室3室を建て、2階には広い調理場と食堂を造った。当初の宿賃は8000円。ほかの民宿は6000円が相場だった。

客が来る来ないということより、施設をつくることが念頭にあったようだ。図書室をつくり、いい加減な公立図書館をしのぐ蔵書と、大きな借金を残して1年後に亡くなった。今となっては本人に確かめる術(すべ) はないが、宿を情報機能をもった文化施設にする意図があったらしい。

小宝島にも文化・情報機能をもった施設として村営住民センターが出来た。が、ここには人が常駐しない。今なお、生きた文化施設は唯一、分校である。

創業者夫婦は小学校の教師をしていた。分校が閉鎖したときの悲しさ、淋しさ、その後に分校を再開にこぎつけるまでの大変な苦労を知っている。

生前の創業者とは離島の教育と暮らしぶりについて語ることは何度かあったが、「島おこし」などという大仰な物言いを聞いたことはない。事業をおこすということより、孤立した島の侘しさをいくらかでも癒す条件をととのえたかったのではないか? 僻遠の地が必ずしも文化果つる地である必要はない。

創業者の死後、「パパラギ」 は長い間空き家になっていた。昨年4月に再開、女将は民宿を建てるときに猛反対したという未亡人である。

何のために宿をやるのか、本人もまだ分からない風である。操業以前から行き掛かりでやっていた「民泊」 の気分を曖昧なままひきずっている観もある。

創業者の精神を漠然と継ぎ、 客が来なければそれでもいいという構え。客がいないとたしかに寂しいけれども、客が来れば来たで、いろいろと気を使う。客は2人くらいがちょうどいい、3人泊まって3室が埋まると、収支上は具合が良いが、疲れる…。

どうにも見ていられないので、ボランティア三助の分際で値上げを提案した。かくて、ことしから創業当時の8000円に戻すことになった。更新した冷暖房機器や調理場の設備などの費用の一部でも回収できたらという程度のことで、どんぶり勘定。赤字の構造自体は変わらない。

島外で暮らしている女将の親族たちの意見を聞いたところ1万円という金額を示したという。そうすれば客がいっそう少なくなって彼女の心も体も休まるというのである。これも一理あるが、実際には1万円を超す経費と労力を費やす顛末になるのは目に見えている。

それでも民宿をやるのはどうしてだろう…というのは長い間の疑問であった。ようやく一つの答えを思いついた。どうやら、島と島の暮らしを自慢したいためにやっている。営業目的が自慢ならば収支はどうでもいい道理である。

そう考えると、料理をガツガツ食って一言も声を発しない客、島を見下したような言動をする客に遭遇すると、とたんに不機嫌になるのもよく理解できる。

間に立つ三助見習いとしては余計な気をもむことになる。しかし、基本的には我儘宿の我儘女将に賛同している。「あの客が今度予約を入れてきたら断る」という女将の意見に異を唱えたことは一度もない。

三助だって、島に観光に来て島を見ない客、島に暮らす人間の苦労をわかろうとしない客の顔は見たくない。辺地の民宿だから宿代が安くて当然、宿賃さえ払えば客だ…といった心得なら島に来てもらわなくていいと本気で思っている。

7月の皆既日食では「基幹産業」の実情を知ろうとしない村当局と、それを存分に承知しいるために島の民宿と一切接触してこなかった旅行代理店が結託した。宿賃は普段の倍請求してもいいから協力してくれという。

この話が持ちかけられたとき、女将は即座に断った。30数万円もの旅行代金を払って来る客の面倒は見切れない…という。1旅行会社が村営フェリー「としま」を押さえて、客が来られないなら期間中休業の覚悟である。

我儘の筋を通して村にたてつく格好になった。どちらの我儘がよりタチがよくないかは、このブログを読む人それぞれの判断に任せる。 とにかく今は、「世紀の宇宙ショー」を島まで見にきた人たちの間で、島の悪い印象が語り継がれることにならないか心配している。

オンジョ鍋

話はおととい・23日にさかのぼる。宿の食堂で酒宴を張ることになった。発端は「こん寒か時、みんな何(な) よ為(し) ちょいやったろかい? なご(長い間) 飲ん方をせんなぁ」という女将のつぶやき。

急きょ「布れ」 を回したら、服喪中の1人を除いて17人が顔をそろえた。来なかった人の悪口を言う会…という爺ぃ提案の会の趣旨がどの程度伝わったのか知らないが、酒を飲めない人たちも顔をだした。

今回は行きがかりがあって、よそから島に来ている人に声をかけた。地の人は島の総代(部落会長、今は「自治会長」 が公式名称) と、牛を出荷しても赤字が増えるだけという状況に陥り、やむなく新婚の奥さんを本土に出稼ぎに出したHさんだけ。これなら島の悪口になっても、蔭口にはならない。

「一重一瓶」の持ち込みが原則。昔から島でやってきた寄り合いの形で、宿の方では場所と火を用意するほかにオンジョ鍋(野外用の大鍋) で炊いたおでんを出した。材料は前もって昼のうちに持ち込まれたものがかなり混じっている。

開会の挨拶も、閉会の辞も、万歳三唱もない。明るいうちから飲みはじめ、遅れてきた人が顔を見せるたびに各自持ち込んだコップ、茶碗、盃に注ぎ足しをして乾杯。「も、寝ろかい」と最後の組の誰かがひと声発して散会になったのは日付が変わって午前1時半を回っていた。

気色ばんだやり取りはあったが、悪口や愚痴の出る暇はなかった。宴が果てて翌日になって、あんなに賑やかで笑い声が絶えない寄り合いは久しぶりだった…という声を聞いた。寒空の下でオンジョ(御尉=老夫) がオンジョ鍋を炊いた甲斐があった。



宿屋の三助

島に戻って4日目になる。以前のとおり、空と海の景色をながめて、刻々と時が刻まれるのを見届ける。読まなければならない資料もあるが、この方は一向にはかどらない。

強いて言えば、日々の業務はつれ合いのサン(柴犬の雑種の老犬) との散歩と、近くの露天温泉で腰をあたためること。あと宿の手伝い。

手伝いと言っても、気が向いたときしか動かない。運転はあまり腰に響かないので、女将が忙しいときは港まで客を送迎する。主目的は港の見物。

宿の補修にも手を出すようになった。倉庫を探検すると十数年放ってある大工道具の類がいろいろ出てくる。見ているうちに使ってみたくなる。建物は存分傷んでいるから、道具を振リ回しはじめたら際限がない。

ほかの客は変な爺ぃをどのような立場の人間かはかりかねている。自分でも分からないのだから、知らない人が混乱しても当然であろう。

初めのころは「客兼三助見習い」 と自称していた。しかし、気まぐれな三助である。身を粉にして働くという心がけなぞない。見習いとしてもよほど出来が悪い。

客の荷物は持ちたくても持てない。逆に客が三助の荷物を運んでくれることもある。見どころのある若い客には、お説教を垂れたりする。三助にしては、どこか威張ったところがあるのかもしれない。

しばらくして女将から「三助と言うのはやめなさい」 と注意された。自分では気づかなかったが、客のなかには自分より身分、立場が下とみると見下す習性を、旅に出ても捨てきれない類の人間がいるらしい。

その手の人間が、トカラ列島のなかでもいちばん辺鄙で不自由な小宝島まで、なにを好き好んで旅をするんだろうか…。 しかし、思いなおせば、そんなことで頭を悩ますのは、年相応の苦労をしてこなかった爺ぃの限界。人間にもいろいろあるという当たり前のことを時々忘れる。

女将にも限界がある。身近な知人、および知人の知人の類から何度も煮え湯を飲まされた。それでも懲りない気配。それでいて、客の人品骨柄を見極める目だけは厳しく確かである。一視同仁。社会的な地位や名声などには惑わされない。

自然と身に着いた職業的な知恵かと思うと、それだけでは説明できないところがある。そこまで考えて、民宿は旅館・ホテルとは本質的に違うのではないか…という疑問に突き当たった。

この先は、またも理屈っぽいおしゃべりをくどくどと語ることになる。続きは次回以降。 

1カ月ぶりの島

∇…2009年01月20日_DSC09048
村営フェリー「としま」には小宝島分校の先生2人に島はえぬきのMさんも乗り合わせていた。午前2時半を回る刻限まで痛飲して、寝台に倒れこんだ。口之島に着くというアナウンスを夢心地で聞いて再び昏睡、中之島をすぎたところで甲板に出た。

海は凪(なぎ) だった。朝日はすでに水平線を離れて、仰角5,6度くらいの空に浮かんでいる。船は船尾をゆっくりと上下にゆすりながら、急がず休まず一路南下する。

小宝島の岸壁にもやい綱を投げたのは20日午後零時15分ごろ。Mさんと先生たちの3人は船をまっ先に降り、そのまま作業にかかる。ひとりは背広姿にヘルメットといういでたち。これで、手薄になっていた綱取り(接岸、荷の積み降ろし、離岸作業) の主力が復原した。

1カ月あまり離れていた島には広い空があった。暖房のきいた「としま」から岸壁に降り立っても温度差を感じない。久々に宿の部屋で一服する。明るく清澄な島の気が隅々まで満ちていた。

島へ

鹿児島港を今夜発つ「としま」を予約した。年明け早々に島に戻るつもりが今頃になった。 雑務、身辺整理はまだまだ。それを片づけてからということになると、いつになるか分からない。とにかく鹿児島は寒い。

天気予報をみたら、ぐずついていた空模様が一時回復するらしい。“なぎ男”の面目躍如ということになるかどうか? 

ただ、海は波が立って当然と考えている。黒潮の本流が真っ直ぐに北に上るところに逆って南に下る。船が揺れない方がおかしいのである。問題は見晴らし。

若いころYS11機で与論島に赴いたとき、南西諸島が洋上に点々と連なるのを見た。それが原風景の一つになっている。当時のプロペラ機はちょうど良い高度を飛んだ。

50代で物故された詩人のF氏はこれを“真珠の首飾り”と言った。この人にしては月並みな表現だと思った。が、実際に空から島影が次第に姿を現わし、それを行き過ぎたと思う間もなく次の島が現れてくるのを見たとき、月並みでもいいのだ…と思いなおした。

予報をつぶさに点検し直すと、出港のころは北の風が止んで無風。ほどなく南風に変わる。空の模様は曇り。船が小宝島につくころの気温は18,9度になるというから雲の層は薄くはないだろう。

船はそこそこに揺れるに違いない。船が揺れたら酔って当然。島々の輪郭をはっきり確認できればいい。それが叶えば村営フェリー「としま」の旅は得がたい遊覧航海になる。

おいちゃん奮闘…雑草園の続き

…さて、雑草園・近隣被害問題の続き。 

園の主は隣人を「おいちゃん」 と呼んでいる。私と同年輩の“旧人類”で、実年齢は私よりいくらか若い。そう呼ばせるのは彼の人徳であろう。気さくな苦労人。もったいをつけたり気取ったりしない。

年末、1カ月半ぶりに雑草園を訪れた。雑草園が面目を改めていた。藪の勢いがおさまり、空も地面も広く見える。

草と落葉樹が冬眠の季節に入ったせいかと思うと、それだけではない。伸びすぎた木は剪定され、カヤがほこっていた一角は刈りこんであった。確かめるまでもない、おいちゃんがやってくれたのである。

北東・鬼門の方角に陣取った肉桂(シナモンの木、方言でケセン) は2.5㍍の高さに芯を止めてあった。思いきったものだ…と思ったが、これより50㌢高くても、低くても落ち着かないだろう。雑草にまぎれて見落としてもおかしくないトラグミの挿し木数本はキチンと残してあった。

肉桂は放っておくと、ゆうに10㍍を越す大木になる。植えた時は1㍍そこそこだったのが、いつのまにか4㍍近い高さになり、きれいに手入れされているおいちゃんの庭木と野菜畑を威圧していた。

これは梅と一緒に苗を買ったものだが、友人が持ち込んだ花も実もならぬ桜十数本と合わせて雑草園の三凶。毒毛虫を誘い込み、春先から夏にかけては木に近づいただけで、刺すような痛みと激しいかゆみを起こす。前々から芯を詰めないといけないと考えていた。

この思いをおいちゃんに語ったのか、語らなかったのか記憶がはっきりしない。おいちゃんは私が梅の木を伐ったときに「まこてボッケな伐いたくい方をしやしたナ」(追記に注) と嘆声をあげたことがある。

木は半分殺すくらいがちょうどいい…という思想を、おいちゃんももっているらしい。鹿児島市の下町に生まれ、いろんな職業を転々とした。庭師、農業の経験があるとは聞いていないが、一帯にまだ家がなかったころ、雑木と雑草のなかに家を建て庭をつくった変な人。「田舎暮らし」に浮かれる今どきの“ナチュラリスト”とは肌合いが違う。

こちらの家に近い部分は手を下さず、雑木と雑草がはびこるままに残してあった。そこまでやってもらうと、それなりの労賃を払わないと格好がつかない。向こうが貰うつもりのないものを、面目にこだわるこちらが押し付けるとギクシャクする。その辺の配慮もあったのかもしれない。

かくて、おいちゃんの家から眺めた風景は、キチンと手入れされた自前の庭と菜園に続いて、半分荒れたところ、それから荒れ放題のところという図になった。真ん中の緩衝地帯は、むかし山里に暮らす人が入り会いの雑木林を手入れしたら、さぞかしこうなるであろうと思われる趣。

…ここまでは、まことに有り難い結構な話である。が、ものごとを為した後には、後始末があるのを忘れていた。惚けの進みつつある頭を混乱させる問題が残った。

2カ月以上、家を空けていた家主がおいちゃんにお礼の口上を述べに行ったとき、雑木の残骸がきれいに切り分けられ、束ねられたのが庭先に置いてあるのを見つけた。どうするのか尋ねると、燃えるゴミの収集日を待っているという。

おいちゃんが野中の一軒家を建てたときは、邪魔な木くずや雑草を払った後は燃やしたはずである。それが、できないという。やかましい苦情を言ってきた人がいるらしい。

苦労人のおいちゃんのことだから自分では燃やさない。ふだん庭で草や枯れ枝を燃やしているのは我が方である。向こう三軒両隣は割と気安いつき合いだから文句があればジカに言うはず。おそらく地球温暖化防止に熱心な人が通りかかり、煙をたてているのはおいちゃんの庭と勘違いしたらしい。

アホな犬猫は尻尾を踏まれると、踏んだ足がつながった人間でなく、たまたま目の前にいる人に噛みつくという。おいちゃんは二重三重の近隣被害を受けていた。

…乱開発のミニ団地を一歩出ると、周辺には田園風景が広がる。暮れから、鬼火焚き用のやぐらがあちこちに作られていた。その数がやたらに多い。地域が空洞化し、田畑も荒れ始めたころ合いに「伝統行事」の形だけが復活した観。むかしはなかった所まで「復活」させたのではないか、と邪推したくなるほどの数の多さ。

それはまだいい。以前テレビで見た、護摩焚きの火の大きさに息をのんだ。丸太を幾重にも組み重ね天空を焦がす火勢。金で買った護摩木に願い事を書いて、これに放り込めば叶うという仕掛けらしい。これは伝統文化とはかかわりのない、ズバリ申せば営利事業。

どっかの「高僧」に呪文を唱えてもらわなくても、むかしの日本人が火をたくのには祈り、願いがともなったのではないか? やたらに大きい“バカ火”を控えれば良いのではないか…と思うけれども、なんとも世知辛い世の中になった。
 

雑草園

新しい寓居は、平成の大合併とかで鹿児島市に編入された旧鹿児島郡吉田町にある。一帯は県道から東側に向けて落ち込んだ窪地で、その斜面の一角。どうやら山城の一部であったらしい。

城の名残があるわけではない。郷土史をめくってみても特段の記述はない。ただ、小字名から推して、どうやら大字の「本城」につづく防衛の拠点があったのではないかと想像している。

上町(かんまっ) と呼ばれてきた鹿児島市の旧市街にその典型をみることができるが、防衛の拠点として構築されたところは居住性が悪い。軍事優先で、後の世に3LDKの民家や「マンション」がひしめくことは想定していない。

吉田の寓居は、農地にも不向きなところを50~60坪に区画をもうけて「ミニ開発」が行われたところ。家主さんは方位方角、風向きなどには頓着しない人だった。前の居住者がもてあました中古住宅を、安いつもりで衝動買いしたらしい。

住んでみると面白くない。隣に乱開発して売れ残った空き地があって、それを庭として買い足して安堵した。その結果、庭が家の北にあるという妙なあんばいの家になった。この庭は人さまには「菜園」などと言っているが、実態は雑草園。

庭木らしきものは友人が持ち込んだシャラの木、ヒバ、外来の観葉杉ぐらい。狭いところに樫や肉桂、桜、柑橘類、椿類、柿、葡萄、グミ、リンゴの木などがひしめき、真ん中の空き地には下生えの雑草と食用植物がせめぎ合う。すさまじい生存競争の世界が現出した。

蓬(よもぎ)や蕗(ふき)は、ここでは有用植物の扱い。蕗は近くの土手からわざわざ移植した。タラは植木屋から買って植えたが、蕗の根を掘り取ったところよりももっと近い土手のあちこちに生えているのに後になって気づいた。

念のため、この庭は雑草雑木の育種、繁殖を目的として設けたのではない。天然自然のなりゆき。雑草の勢力をいくらかでも殺ぐためにハーブ類や実のなる木をいろいろ植えてみた。その結果、ハーブや果樹まで雑草にみえる趣になった。

いかんせん、家主はもちろん、鍵を預かった庭守りの小生も留守がちである。手をかける暇がないことは初めから分かっていた。野菜の種をまき、苗を植えてみる。そこまでは殊勝だが、本格的に客土し、舐めるように草を抜くなどということは考えなかった。雑草のなかで野菜を育てようという大いなる野望!


最初はカヤ、セイタカアワダチソウ、スギナの寡占状態だった雑草種も多彩になった。何十年もの間、土のなかで隠忍自重していた少数派の雑草もよみがえった。出来ごころで草取りなんぞやると、せっかく育てた山椒の葉や葉物野菜が虫の猛攻撃をうけることもこの庭が教えてくれた。

植物種がこれだけひしめき合った区画は近辺では見当たらない。おかげで蝶や蜘蛛、トカゲ、鳥類が寄ってきて小動物の生態も豊かである。

結構といえば結構な話で、家主と怠け者の庭守りはそれでよしとしていた。 しかし、ここで教えられたことが二つある。

一つは、菜園づくりの真似ごとをするにあたり省力化はかなりの程度可能であるが、どうしても手抜きできない作業があること。むずかしく考えることはない。当たり前の話。 …収穫である。

もう一つは、わがままと怠けが過ぎるとやっぱり近隣に迷惑をかけるということ。これも当たり前の話で、雑草の種は隣近所に飛んでいく。大木は隣家の庭に翳をつくり、落ち葉をまき散らす。雑草と雑木を植えた張本人は南の島に遁走したきり帰ってこないのでタチが悪い。

これはさすがの家主も気にしていて、隣の人に、邪魔な木は切ってほしいと頼んでいた。柵がないから隣家にとっては南向きの庭という立地である。隣人の立場で言えば、せっかく丹精込めた自分の庭の目前に、雑草と雑木の藪が迫る。

考え治してみると、これは大変に無責任な依頼である。邪魔なものを切れと言うなら、隣人としては全部切り払ってしまいたいのかもしれない。適当に切れ…というのは、ただで庭師を頼むのと同じではないか。気さくな隣人も、合点承知の助…とは言ってくれないままだった。

…ダラダラおしゃべりをしているところに、ヤボな用事が飛び込んできた。急きょ混濁の巷に降りなければならぬ。横着ながら続きは後日。

船がでるゾー!

5日、いわゆる「月曜出し」の村営フェリー「としま」で島に戻るのが当初の予定だった。それが欠航になって9日の「金曜出し」まで待つことになった。

それも延期々々で出ない。12日の月間ダイヤ「月曜出し」と重なることになったが、今度も出ない。きょう13日は、ようやく午前9時過ぎになって「出港」の報が届いた。船は1週間以上も鹿児島港に“氷漬け”になった。

やっと出ることになった船に乗るのを見送ることにした。ふてくされてペースを落としているうちに、鹿児島での雑用がまだ片づかないまま残ったためである。雑用は雑用を生む性質があるらしい。

それだけでもない。船に合わせて、人間まで“氷漬け”状態になって、怠けに怠けた。いくら冬場でも時化がこんなにも続くことは、そうあるまい。ひと区切りついたら、いつでも島に戻れるという気持ちもある。

年に1度しか船が出なかった昔に比べると何ほどのこともない。…どうやら、人間まで横着になった気配。

本土に居ると気が急く。読まなければならぬという気にさせる書物や資料がいろいろと出てきて、それを並べて拾い読みする。いっこうにハカがいかない。

空いているつもりの施設、事業所に行くと休みだったりする。これも気鬱のもと。ふだん仕事をしていないと思われるところほど土曜、祭日をキッチリ休むのか、と思うと腹が立つ。

さいきんは土曜を含めると3連休ということが多い。「金帰火来」の政治家と、やりかけの仕事が片づかなくても決められた時間になると帰り仕度をする役人の都合で決められたのではないか…。日銭をかせいで食いつないでいる人たちにとっては迷惑なことであろう。

日本はいつの間にか階層分化してしまった。毎日が日曜日の年金生活者が言うことではないかもしれないが、なんとも生きにくい世の中になった。

ニューイヤー・コンサート

元日、ニューイヤー・コンサートのテレビ中継を見た。今年の指揮者は、なんとダニエル・バレンボイム。ウィーンの楽団が南米生まれで、ピアノから音楽にはいってきた人を招いた。

その程度のいい加減な心得でテレビ画面を見ていたら、合い間のおしゃべりに出ていた人がバレンボイムを評して「現代のカリスマ」と言う。ちょっと違うのではないか…と思った。本人が聞いたら、必ずしも喜ばないのではないか?

こちらの勝手な受け取り方かもしれないが、バレンボイムにはフルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、カラヤンのような重々しい雰囲気やカッコ良さがない。それが良い。

権威や名声に馴染んでいるというかどうかはあずかり知らぬところだが、〝見ばえ〟を言えば「カリスマ」性がない。短躯で、手が小さく腕も短い。芸術家というより、ナリに構わぬ職人という印象。聴衆・観衆に存分に楽しんでもらおうという一念で舞台に立っている。

「締め」のラデツキー行進曲の出だしでは演奏を止めて音楽にかかわりのないおしゃべりを挟んだ。長くは語らない。ひと言。「中東に平和がきますように…」。

晴れやかで浮きたった会場の空気に、冷や水をあびせるような場違いな発言である。受け取り方はさまざまであろう。

14年前、パレスティナ解放区のガザを訪ねたときのことを思いだした。アラファトの公邸を護衛している若い将校が話しかけてきた。いきなり「ドゥー・ユー・スピーク・コリアン?」と尋ねる。

なぜ韓国語なのか聞いてみると、北朝鮮に滞在したことがあるという。滞在の目的は、ミサイルの扱いを学ぶためだったとのこと。自分がいま、どんな世界に生きているのか、あらためて考えさせられた。

遠い中東の若者が北朝鮮にいるときに、日本をどのような眼で見ていたのか? 推測はむずかしいが、地理的な距離感など問題にならない緊迫した時代に世界の人びとが生きていることを考えてこなかった。少なくとも自分は彼よりも世界を知らない。

ガザの町は狭い。焼け跡を思わせる空き地のぬかるみの周囲に家が建て込んでいた。眼鏡をかけ、カメラをぶら下げた日本人定番のなりをした旅行者の姿をみとめると、人がわいてきた。

仕事にあぶれているらしい男たちと子ども。次々に握手を求めてきた。当時の日本は、石油利権とのからみで今ほどアメリカべったりの外交をしていなかったという。医療機器などの援助もしている。

彼らの間には、遠いところにあるアジア人の国がアメリカと違う国ではないか…という誤解がまだ生きていた。宗教は違うけれども敵ではないはずだ、ひょっとしたら味方かもしれない…という期待があったらしい。

それから5日後、イスラエルのラビン首相暗殺の報を鹿児島で聞いた。車を運転しながらラジオを流していたら唐突に速報が飛び込んできた。ユダヤ原理主義の過激派による犯行という。

当時、「カイロ和平」といわれ、現状打開の模索が行われていた。そんな状況だったおかげで、「旧約聖書」を読んだ程度の知識しかない呑気な日本人がガザの街をカメラなんぞぶら下げて歩けたのである。

その立役者がラビンとアラファトだった。ラビンはイスラエル軍を指揮し、アラブ人虐殺に手を染めた経歴のある人である。暗殺の報を聞いて、これで歴史的な和解の歩みは最低15年間は足踏みすると思った。

まだ出口が見えない。その間に日本の政府と自衛隊はすっかりアメリカに巻き込まれてしまった。ガザの子どもたちの手のぬくもり、目の輝きは遠いところに行ってしまった。

今、この子どもたちの上に爆弾が落とされている。「人道」をお題目にしている日本の政府は何も言わないだけででなく、イスラエルを後押しするアメリカと結託している。「人道」どころか「正義」もない。

関係のない遠いところの話をわざわざ持ちだしてきれいごとを言っているつもりはない。政治も法も経済も、哲学と倫理を失うと必ず破綻する…。バカの一つ覚えみたいにそう言ってきたが、今の時世だと、これを「書生論議」 とか「耄碌爺ぃのくりごと」 と笑う人はいくらか少なくなっているかもしれない。

バレンボイムはユダヤ人、アラブ人の青少年混成の交響楽団をつくり、治安の悪いところで演奏会を開いている。ピアノの指導もしている。

とくにピアノの指導ではアラブ系の青少年の才能に舌を巻く。考えてみると当たり前のことで、欧米の、あるいはロシア系、ユダヤ系の人たちだけが才能と知恵に恵まれていると思う根拠は何もない。

年があけた!

久しぶりに機械の電源を入れてみたら、ブログの書き込みは12月19日付のままだった。その間、毎日接触してくれている人がいるらしい。申訳のなさと同時に有り難い思い。

どうにか生きてます。生かされていると言うべきところなんだろうが、殊勝げな物言いを人さまに向けてできるほどの修業はこれからのこと。

年末は転居した。退職時いらい6回目。引っ越しと言っても今回は鹿児島での居所を2か所から1か所にまとめる作業で重労働にはならないはずだが、時間をかけて捨てようと思ってきた荷物が溜まっていて、やはり大仕事になった。

不思議なもので腰の痛みが耐えられなくなるという状態にはまだなっていない。理由はわからない。鹿児島にもどっても、いい温泉があるのが有り難い。

この間に長期入院が3回あった。居所はいま小宝島と鹿児島の2つ。仕事は最後まで残した講師のまねごとも辞める顛末になったから、文字どおり住所不定無職。

ここまで来て言い訳がましいことを言うのも変だけど、賀状もサボった。毎度、住所が変わっては貰う方も迷惑であろう。返事はどうしたものか困っている。

小生の所在にある程度の関心のある人には電話と携帯電話のメールでお知らせした。関心がありすぎる人には、電話か電子メール。この人たちのなかにはブログの手すさびをしていることを知らせていない事例もある。

以上、とりあえず、近況報告。もう少し落ち着いてきたら毒にも薬にもならぬおしゃべりを再開します。



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