じじらぎ

  

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化粧

∇…033
11日朝に小宝島に寄り、そのまま鹿児島に向かったのを最後に姿を見せなかった「としま」が戻ってきた。 定期点検でドック入りし、その間は週1便だけ三島村営フェリー「みしま」が代船をつとめてくれていた。

「みしま」は優美だった。 そのかわり、港内に入っても揺れた。 よんどころのないことで、接岸に時間がかかる。

十島村営フェリー「としま」は、当たり前の顔をして港に堂々とはいり、手早く接岸した。 見慣れた光景が見慣れた通り、とどこおりなく進む。 岸壁の人びとも、いつもと同じ当たり前の顔をしている。

……やっと「としま」が戻ってきた。

ミヤ婆 (※追記に注) が岸壁にきていた。 誰の見送りか…と聞けば「出迎え」という。 はて? それらしい人物が見当たらない。

重ねて問うと、「としま」の出迎えだった。 年に一度の化粧直しをしてきたというから顔を見にきた…という。

オバアも化粧直しして出迎えか? と埒もない茶々をいれると、高笑いしていなす。 「化粧しようにも何にも、家にはアサヒペンしか置いてないワイ」。 

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もののけ!?

∇…012
25日朝8時過ぎ南風原(はえばる) 牧場でヤギの群れを見た。一周道路から百数十㍍海岸寄りの柵、灌木から珊瑚礁原につづく境目のあたりに7、8頭。もっと多かったのかもしれない。白い体が重なって、遠くからは数えにくい。

牧場の柵をくぐって接近。徐々に距離を詰め、6、70㍍ほど近づいたらサッと珊瑚礁の岩陰に隠れた。堂々とした体躯のオス2頭がのこって、こちらの動きをうかがっていたが、それもつかの間。間をおかずに姿を消した。思いのほか用心深い。

なぜか、群れの数が多い。今まで小宝島では2頭、よその島で4頭までは確認した。一定の統制のもとに十頭近いノヤギの群れが人の気配の濃厚なところまで進出してきたのを見るのは初めて、想定外のことである。

それ以上の驚きは体格の大きさである。距離が離れていて断定はしにくいが、オスの体重はどう見ても60㌔を超えている。アニメの「もののけ姫」に出てくる老カモシカを思い起こさせる重量感。今まで見た小ぶりのノヤギとは違う。

宿に戻ってインターネットで調べてみた。大学の研究室が出している情報でも、動物園などのサイトでもトカラヤギはオスでもせいぜい30㌔とある。ならば、南風原牧場にいたノヤギはいったい何者だ?

30数年前から宝と小宝の両島に住み、ヤギをいっぱい食ってきた宿の女将にきくと、「ああ。放っておくと大きくなるよ」とこともなげ。となれば、大型の外来種・ザーネン種が野生化し、トカラヤギと雑居ないし混血した可能性を考えないといけない。

飼い主もいちおういるという。なかなか捕まらず、腕をこまねいているうちに大きくなったらしい。牛の放牧と競合する食害も心配だが、本来のトカラヤギはどうしているんだろう?






夏が来た

夕方になって気温は26度近くまで上がった。気温だけのことなら我慢できる範囲内だろうけど、蒸し暑い。ついに除湿・冷房の電源を入れた。

食堂のホットカーペットはどうにか納戸部屋に移した。火鉢と石油ストーブまで片づけていいものか踏ん切りがつかない。

北海道を旅している友人からは、雪に埋もれて郵便受けだけが家の在りかを示している写真が送られてきた。

稲妻

自分の亡きあと家族に何を残すか…ということを真剣に悩んでいる人がいて、我が身をふり返る始末になった。

自分の場合は何も残さない。特段の思いがあったわけではなく、成りゆきでそうなった。父親から相続した遺産は一つだけ。これは一人娘にそのまま伝える。

ここまで真面目に読んでいただいた人には申し訳ないような気もするけど、本音も半分は入っているから勘弁してもらいたい。相続した遺産というのは西郷隆盛の遺訓 「子孫のために美田を買わず」という心得。

そう。残すのは、父親が我儘に生きたという記憶だけ。先祖代々の遺産としての我儘は、いつのまにか、かなりの部分の生前贈与が済んでいる気配。

我儘には権威権力に無用の敬意を払わないというだけでなく、弱い者いじめをしない…という成分も含まれていると思っている。そう思いなせば、存外捨てたものでもない。

ただし、こんなものを人さまに勧めるわけにはいかない。人によってはガラクタの骨董。もしも子どもさんが障害をかかえているとしたら、親が我儘勝手に暮らすことに何の価値もない…。

……さっきまで、いままで聞いたこともないような凄まじい音をたてて宿の周辺を舞っていた風が急に止んだ。まだ暗い空を見上げると、恐ろしいほどの静謐があった。

なぜ急に静かになったんだろう…と思っていたら、南の空に稲妻が光った。間をおいて西の空、竹ん山の上からも光る。それ以上のことはなく、やがて元の暗闇。机に戻ったら大粒の雨が屋根をたたく音がして、豪雨になった。

稲妻は、人を我儘に駆り立てるようなところがある。29年前の未明、中之島でみた南の海に光る稲妻と今、自分が小宝島にいることとは、ひょっとしたら関わりがあるのか…?

天気概況を確認したら前線が通り過ぎただけのことだった。この前線もやがて途切れ、大陸から新しい前線が雨を連れてまたやってくるという。なるほど、代船の「みしま」が鹿児島出港を一時迷ったのはこのせいだった。

室内の温度は摂氏22度。ようやく雨はやんだが、梅雨の末期のような肌もち(体感の天気模様) である。

「コミュニティ」って何だ?

きのう「南の島」という「コミュニティ」(?)をわけが分からないまま作ってみた。奄美や沖縄を共通項にしたコミュニティはあるんだけど、「島」や「トカラ」、あるいは「浜」のものがなぜかない。

あっても良いものがない。気になるので冥土の土産に作ってみた。名前はぼやけたものの方が良いと思って、お座なりに、いちおう「南の島」にした。

案の定、話にのってくる人はいない。きょうになって現われた参加者は1件。「夢無」という。個人なのか団体なのか分からない。

色んな人が色んな話題で書き込みをしている。そのなかで、刺し身の話があったので、要らぬおしゃべりを書きこんだら以下の形式で自分のブログに掲載されることになった。

それにしても「トラックバック」って一体何だろう。日本語で言ってもらわないと爺ぃには分からない。

第675回「料理のエピソード」

うめちゃんはこの前、お客さんが来た時、もう一人のうめちゃんに言われたのです。「生きた鯛をお魚センターで買って、三枚におろして貰らえ。俺が帰ってから切るから、そのまま冷蔵庫にいれとけ!」ですって。つまり、うめちゃんが切ると、刺身が不味くなるから、触るなということです。うん十年も主婦してるんですけど、お料理ちっとも上手くならないんですよ。考えてみると、食いしん坊じゃないんです。だから、上手くならないん...
第675回「料理のエピソード」

代船「みしま」

∇…018 三島村の村営フェリー「みしま」が十島村の小宝島にやってきた。遊びや隣村の見物に来たのではない。「代船」。島の防災情報の拡声器は「代船『みしま』」と呼んでいる。

村営フェリー「としま」が定期点検のためにドック入りした。その代わり。年に一度の相互扶助で、「みしま」がドック入りするときは「としま」が代船をつとめ、竹島、硫黄島、黒島の三島をめぐる。

そんな決まりも位置づけもあるはずはないと考えているが、この二つの船には姉妹船のような趣がある。「としま」(1,392㌧) が「みしま」(1,196㌧)よりやや大きい。あと長さ、幅とも大きな差はない。航海速度は19ノット、旅客定員200人はいっしょ。

就航時期は「としま」が1年早い姉さん。2000年就航で「みしま」は翌年の2001年。一年違いの「としご」だが、小宝港に入ってくる「みしま」を見て、姉さんに比べて妹はよほど大事に育てられた箱入り娘の趣であった。

性能や生い立ちにそれほどの違いはない。しかし、「としま」を20世紀型、「みしま」を21世紀型と呼びたくなるほどの落差があった。「みしま」が若く見えるのにたいして、「としま」は苦労を重ねた大年増を連想させる。

「みしま」は最終停泊港・片泊に錨をおろすまでに3つの港に寄る。片道の航海時間はざっと5時間半、距離は150余㌔。一方の「としま」は名瀬便の場合、7つの港に寄り、片道航海時間は16時間半、距離はおよそ420㌔。

普段の働きぶりに大きな差がある。「みしま」の航路は3分の1以上が静かな錦江湾内なのにたいして、「としま」は難所の七島灘を往復する。ひとつ違いの姉さんが年よりも老けるのもやむを得ない。

∇…020 「みしま」は18日の下り便が40分ほど遅く、19日上り便がほぼ定刻に貴婦人のような姿を見せた。慣れないことで港内での旋回、繋留に時間をかける。久しぶりに海が凪ぎ、港内のうねりも普段より小さいのに結構揺れている。タラップの上り降りもふら付きながら駆け足になった。



臆面もなく再度のツラ談義

きょうもロクに体も動かさなかった。宿の前の小道で草取りの真似ごとをしていたらS婆さんが通りかかった。挨拶ついでに、鹿児島市で働いている孫のことを誉めた。

前にも同じことを言って誉めたことがあった。それを承知で臆面もなく反復する。この手の無駄が地球環境破壊につながることはあるまい。耳が遠くなったS婆さんも、孫の話になるととたんに聞こえが良くなる。

おべんちゃらを言っているつもりはない。今どき珍しい出来た青年だと心底思う。鹿児島市で偶然知り合ったのだが、骨惜しみをしないで働く。物腰が柔らかく他人への心づかいが板についていて嫌みがない。

たった一度しか出会わなかった青年のことを思いだすのは、たまたま彼が小宝島出身であったという極めて確率の低い偶然への驚きだけではない。昔は田舎に行くと何の見返りも期待しないで、他人をさりげなく温かく遇する人たちがどこにでもいた。それを思いだしたのである。

体験で言えば3、40年前に農山漁村で出会った年寄りたち。それに個人的な思い出を語らせてもらえば、薩摩半島の西側の漁村で一本釣りをしていた祖父。みんな教育のない人たちだが、それぞれに達人の風格があった。

当時、大学の関係者とも付き合いがあったが、田舎に暮らす年寄りが高学歴の学者・研究者よりも劣ると考えたことはない。生活の知恵はもちろん、広い意味での教養も無学の年寄りたちがむしろ上ではないか…とも思うことさえあった。

また顔の話になる。ズバリ、愚痴めいた昔語りをさせてもらえば、大学の研究棟や付属病院の廊下を肩で風切って歩く先生たちよりも、昔の年寄りの方が良い顔をしていたのである。

なぜ良い顔なのか説明はむずかしい。目の色が違う。知的でやさしい。言葉遣いも方言丸出しで、敬語が発達しない地域では飾り気の入りこむ隙はない。それでいて豊かな表現力とやさしさ、やわらかさを損なうことがない。

民俗学者のS博士が書き残した記録に出てくる人物について、宿から数十㍍先に住むA婆さんに確かめた。「あぁ、それはうちの亡くなった亭主」という。なるほど予想していた通りだった。

S博士は小宝島の漁師が16もの方位の風向きを見分け、言い分けて暮らしていたことを紹介している。それを教えた話者の一人は、とうの昔に死者の列にくわえられ、島の人の記憶からも忘れ去られつつあった。

もちろん、ここでA婆さんのご亭主の方が第一回柳田國男賞を受賞したS博士よりも知的であった、と言うつもりはない。ただ、S博士を遇するにあたって、知識があるというだけのことなら無用の敬意であって、博士ご本人も迷惑なはずである。

博士の報告を読んでみると、昔の小宝島の人たちは思いのほか豊かな生活をしていた。港は丸い島のあちこち7、8カ所にあって、風向きによって自在に選んだ。今、船に動力がついて大型化して却って漁に出なくなった。

作物もいろんなものを作っていた。小宝神社では折々に粟の祭り、麦の祭り、稲の祭りなどがもたれ、豊作を祈願する。今は粟も麦も稲も作らない。稲は祭りのときに供える穂を確保するために数年前まで作っていたという。田んぼの跡は鋤き起こせば明日にでも田植え出来そうな風情。

「自給自足の実験」などと力むのは見当違いだった。ついこの間まで、四季を通じて豊かな海の恵み地の恵みに浴してきた。お遊びと笑われてもいい。それを部分的にでも思いだして暇なときに真似をしても罰が当たることはあるまい。

昔は絶えず働いていたという。それを苦役だったとは誰も言わない。そのまま真似するのは無理としても、せめて野放しの善意と骨惜しみなく体を動かすことを愚かなこととしない気風だけは守りたい。

日本人の顔

テレビはわりと見ている。体に悪いということは分かっているけれども、中毒が治りきっていない。ニュースの時間になると誘惑に負けて電源を入れてしまう。

やっぱり恐れていた通りにしかならない。麻薬と違ってテレビは心を解き放つ幻想も幻覚も与えてくれない。 結末はいつも幻滅。見たあとで後悔する。腹が立つ、血圧が上がる。 

…血圧が上がるのは血圧計で測らなくても分かる。まず顔が紅潮する。これは誰が見ても分かる外見上の変化だが、本人の実感はより深い。心臓や脳の硬くなった血管の悲鳴が聞こえてくるような気になる。

念のため、悲惨で理不尽な紛争や戦争、陰惨な事件を繰り返し見せることに怒るのではない。逆に見せないこと、中途半端な見せ方をすることに腹が立つ。

いよいよキチンとした話が始まるであろう…と期待を持たせたところで話は終わる。ニュース報道が見世物(ショー ) の様相を帯びる趨勢は抗しがたいところもあるのだろうが、これでは子供騙しの昔の紙芝居と変わるところがない。

それにしても、画面に出る人の顔が下品になった。妙に上品そうなのも気色が悪いから、下品で構うことはないが、なんとも面白味がなくなった。

昔は悪党は悪党らしい顔つきをしていた。かつての三木武吉や大野伴睦の悪党ヅラは鑑賞に耐えるものだった。いずれも戦時中の翼賛選挙に非推薦で立候補した生粋の党人。

三木は「誠心誠意嘘をつく自民党を生んだ男」と言われた。大野は岐阜羽島駅をつくらせて駅前の銅像になった。田中角栄よりも筋目正しい利益誘導政治の本元。

私に言わせてもらえれば、彼らに比べ吉田茂や鳩山一郎、さらに小泉某、小沢某、佐藤某などは一回りも二周りも小さい、ただのハッタリ屋。小物の孫の世代が今の政治家である。

親がかりならぬ“爺がかり”。「親の七光り」の二乗倍のボンボンだから、人並みの苦労をしていない。そのぶんだけおっとりした、平和そうな顔なのかと思うと大違い。小悪党が二代を経てもっとケチになり、貧弱な小ずるい人相になった。

失礼ながら御曹司たちの顔は、タスマニアあたりの肉食有袋類や禿鷹、爬虫類を思わせる。ここで失礼と言ったのは、引き合いに出した動物たちにたいして申し上げている。彼らの方がまだ誠心誠意、必死に生きている者特有の引き締まった悪党ヅラをしてる。

いつの頃からか、日本人の顔は畜生以下のペラリとした薄っぺらなものになった。 …そんな主観的な断定、決めつけを言うものではない-との声もありそうだが、全くの手がかりなしにものを言っているわけでもない。

幕末維新期の志士たちの写真は、いま見ても衝撃的である。頬骨が突き出て不細工。体格も、貧弱な痩身。それなのに妙な存在感、迫力のようなものがある。なんとしても目の輝きが違う。

もう一つ、印象的な日本人の顔の写真は知覧の特攻記念館に展示してある。改築前の記念館では遺書や写真の数々が不造作にガラスケースに収めてあるだけで、その方がずっと良かったと思っているが、初めて見る人にとっては妙な演出や勿体も邪魔にならないらしい。それだけの説得力を写真そのものがもっている。

米国の知人を案内したことがある。叔父は太平洋戦争の前線で戦ったという退役軍人。姉は現役の海軍大佐という。私の伯父・叔父は帝国海軍の軍人や軍属で3人が死んでいる。単純な色わけでは敵方、「鬼畜米英」の片割れである。

その男が、特攻隊員の写真の数々を前に立ち尽くした。長い長い沈黙の後、ひと言。「みんな良い顔をしている。日本人がこんな美しい顔をしていたとは知らなかった」。

特攻を美化する気持ちは毛頭ない。当の米国人にも妙な思い入れはない。実はニューヨークにスタジオを構える職業写真家で、肖像や静物写真の技術を大学でも教えている。職業人の客観的な見解とみていいだろう。

先日、黒澤明の「用心棒」を作り直したという映画の紹介をテレビで見た。予告編を見ただけの、またも主観的な評価ながら、感覚、技術、熱意ともに先人に劣る者が名作を作り直す意味が分からなかった。

どうにもならないのは役者の顔である。藩の行く末を憂う若侍たちが、どれをとっても今風の薄っぺらな「イケメン」ばかり。その頭にちょんまげを乗せたところで、中学高校の文化祭のにわか芝居と変わらない。

……どうにもこうにも、無いものねだりばかりする雲行きになった。が、これが私の鬱の引き金の一つだった。日本人はとうに滅びてしまったのだ。

今はせめて、出来そこないの唐芋(からいも) を温泉の噴気で蒸し、丁寧に皮を剥いて食らってみる。往時をしのぶに十分な水っぽい、まずい芋。それを、時間をかけて丁寧に食らう。

そのあとに、あらためて鏡を覗きこむ。が、貧窮追体験の効果を確認することはできない。加齢と懶惰(らんだ) でふやけきった顔に、いささかの変化もない。

竹と争う!

ブログをサボった。というより、とても呑気なおしゃべりなんぞする気にはなれなかった。何もしたくない。 それ以前に、何も考えたくない。

とにかく何もかも嫌になった。日本という国家も、「日本人」という民族もない方がいい。抹殺するほどの値打ちもないが、とにかく世界から消えた方が人類の未来のためにいい…。

本気でそう思った。実は、今でもその思いを捨てたわけではない。「まぁ、しゃあないか」といったやけくそで、テゲテゲ(大概々々) な気分になって、ようやくドン底を這いあがった。

気鬱がおさまる間際になって、普段は考えもしない無茶なことをしたくなった。おとといは、裏の竹藪に挑んだ。藪を拓くというつもりはない。人ひとり通れる幅に伐り進んでいけば厚い竹の壁の向こうには何があるんだろうか…と考えた。

手袋をしないまま、目についたナマクラの鎌と鋸を振り回す。てのひらも甲も傷だらけになった。目の上が妙にナマ温かいので拭ってみたら顔からも出血している。やがて腰が立たなくなった。

遠くから老犬のサンが心配そうな顔で見ている。犬が言葉を喋れたらなんと言うだろうと考えたが、喋らなくても言いたいことは分かっている。言葉なんぞなくていいのだ。

ひょっとしたら言葉を持ったことこそが原罪かもしれぬ。言葉なしには正義も法も神も生まれなかった。言葉が正義や神を崇め、冒涜する…。そう考えてみて、やっと刃の欠けた鎌を置いた。

何が気鬱の引き金になったかについては特定がむずかしい。竹の山に面壁して、見ざる聞かざる言わざるの三猿に徹しきればいいのだが、そうもいかない。なぜか不快なことを次から次に見聞きする顛末になった。

うっかり語れば鬱の気がぶり返す。話を「日本人の顔」に象徴化、ないしは置き換えて話すことはできるかもしれない。ただし、少し間をおきたい。これからもう一つ、何でもいいから無茶なことをして、その後に昼寝をしたい。

2月の祭り

港から平坦な道を7,8分歩いて集落の入り口にかかるところに小宝神社がある。ここで5日午前9時から祭りがあるという。

何の祭りか聞いてみると「2月のまつり」。月例の儀礼ではなく、向こう1年の家内安全、家族の健康を祈るらしい。とすれば、位置づけは今では作らなくなった麦の祭りや稲の祭りよりもずっと重要である。とにかく、行ってみることにした。

島の人は仕事を休んでまでは列席しなくなっていた。分校の先生7人と児童生徒7人は授業中だから出てこない。島のしきたりを大事にすべき立場と本人も思っている4人の男手のほかは、お婆さんたちと女、幼児、それに島に長逗留しているよそ者が自分を含めて2人。合わせて14人。

祝詞(のりと) 奏上はなく、合祀されている10の神さまに決められた順番にしたがって2拍2礼。神前には精米された生米と白い米の粉をそのまま団子状にしたものを備えてあるだけ。

祭りに出られない人にも不都合がないような工夫があった。礼拝が終わったあとに、各自に健康を祈るべき一族の人数を申告する。ひとりで20人を超す人数になる人もいて、合わせると結構な数になる。3000を基数に合計を割る伝承の計算法にしたがい、ことしは10という数字がはじき出された。

10というのは社殿の前の小さな広場を列をつくって歩く数である。「人が少なくなったなぁ、10周で済むのか」という声も。「回れますか」と気遣ってくれる人もいたが、10周なら無理はない。最後尾についてヨタヨタと歩いた。

あとは、小さなグラスに焼酎を注いで形だけのなおらい。それだけのことだが、みんなひと仕事終えたような顔をして帰路についた。

島の宗教儀礼については、いずれキチンと聞いておきたいと思うことがある。が、今のところは腰の養生と海と空の景色を眺めるのに忙しくて手が回らない。気が乗らないということもある。

とにかく、丸い珊瑚礁の島の全方位、あちこちに神々が鎮座していて、島の人はそれに付かず離れず、いささか曖昧な気分のままつき合っている。心の内までは分からない。信仰があついわけでもないのに、特定の社殿や祠に近づくと足がすくむ…という人もいる。

神役にあたるお爺さんは鹿児島市に長期入院中である。当座は、息子さんが代役をしている。祝詞もあるのだが、まだキチンと教わっていないらしい。小宝島独自のもので他の島の祝詞は参考にならない。

別個に女祝詞もあるという。お婆さんの一人が知っているはずだが、語るのはもちろん、人につたえることもしないという。なぜなのかは本人に直接聞いてみないと分からない。

写真機は持っていったが、シャッターを切らなかった。撮影しても咎めだてされることはないだろうが、気が進まない。半分くらいは島の人間になってしまったらしい。

帰農

帰農というのは、自分のことではない。宿の女将のこと。

農家に生まれたという。両親は小作から出発して田畑をひらき、売りに出された農地があると聞けば無理をして買った。田畑はだんだんと広がり、高校まで農作業を手伝っていた娘に「進学しなさい」…と言えるまでになった。ほどなく、そろって若死にした。

女将は民宿を再開しても、親から継いだ血が騒ぎだすらしい。藪をみるとドキドキする。島の人に頼んでビッシリ生えていた竹を機械で掘り起こしてもらい、2坪しかなかった菜園を広げていった。まだまだ狭い。狭いところに思いつくままに色々な苗や種子を取り寄せ、野菜、果樹、ハーブ、花などを植えまくっている。

民宿は農業や漁業をやっている人が副業で始めるということは聞いていた。ここでは様子が違う。民宿を始めながら、手探りの農業の方に身を入れている。話が逆である。

帰農は、民宿再開と同じ時期。まだ1年たたない。農作業を手伝ったといっても、手伝いは手伝いだけのこと、作物のことを知っているわけではない。それなのに、なぜか青々とした野菜が競うようにして育つ。

ピーマンはまだ、実をつけている。客が来ても食べ切れない。ミズナ、春菊、ブロッコリーの勢いも尋常ではない。収穫が追いつかず小松菜は芯が伸びて「大松菜」になってしまった。ナスやオクラは盛りこそ過ぎたが、放っておけば木になりそうな勢い。

化学肥料は一切使わない。有機農業に挑戦…などという殊勝な心掛けはない。化学肥料は使い方が分からない。その前に、お金がかかるのが嫌である。それで、何故に作物がよくできるのか? 毎日、目をかけているせいであろうか…と、考えていたが、それだけでは説明できない。
 
きょう、これに一つの答えを示す情報が本土にいる親族からもたらされた。開墾して1年目は作物の出来がいいのだという。女将はとたんにむずかしい顔になって、来年のための堆肥の思案にふけっている。

私の方は、別のことを考え始めた。トカラ一帯は古くは焼き畑地帯といわれ、イモ類を主とした貧しい食事をしていたという印象があった。しかし、昔の人の食生活は結構豊かだったのではないか? 今がいちばんと思いこむことはないのかもしれない。



∇…233 女将(写真左上端) が民宿を紹介するつもりで始めたブログは、裏の菜園の作物についての記述が多い。親族は民宿ブログではなく「百姓ブログ」と言っている。いつの間にか野菜づくりの方が本業になった観がある。以下は菜園の2月2日現在の作物、およびハーブ・雑草。

∇…コネギ コネギ  ∇…210 深ネギ  ∇…209 キャベツ  ∇…208ブロッコリー 

∇…223 ホウレン草  ∇…219 大根  ∇…204 ミズナ  ∇…205 ピーマン 
 
∇…222 唐辛子 ∇…213 パプリカ  ∇…217 ナス  ∇…218 時計草  

∇…212 パパイヤ  ∇…226 ユズ  ∇…236 聖護院  ∇…243 ローズマリー

  
∇…225 バジル  ∇…ジャーマン・カモミール ジャーマン・カモミール  ∇…241 イタリアン・パセリとニラ

∇…244 レモン・グラス


ヒチゲー

∇…196
2月1日、日曜日。きょうはヒチゲーだと聞いた。「日違い」という字をあてた文献もあるが、由来は知らない。図書室にあった「十島村誌」に目を通してみても1、2行の記述しかない。旧暦12月16日、17日のどちらかだか、両方だかがヒチゲーに当たり、この日は家にこもり謹慎するのだという。

きょうは旧暦1月7日だから、村誌の記述とは違う。いつ頃から、なぜ日付が違うようになったのかM婆さんに聞けば分かるはずだが、この日は戸を閉(た)てて逼塞しているに違いない。遠慮した方がいいかもしれぬ、と考えた。

たまたまMばあさんの娘さんが宿に寄ったので、今から押しかけてもいいものかどうか聞いてみた。いいとも、いけないとも言わない。娘さんが迷っているのなら、やっぱり行かない方がいい。

娘さんは50歳代だが、島の古いしきたりを割とよく知っていた。が、ヒチゲーの由来や意味については曖昧である。年寄りが律儀に守っていることを尊重して、形だけはいちおう従うようにしている。

家の戸口にトベラの枝を刺す。この木は独特の臭みがあって、神さまが山から降りるとき (逆に、海から部落を通って山から天にのぼるということかもしれないが、未確認) 家に入ってこられては神さまも家の者も面倒だから、静かに通り過ぎてもらうということらしい。

この心持ちは30年ほど前に中之島と平島で聞いた「除け日」と似ている。ヒチゲーとの違いは、その時は聞き洩らしたままだった。娘さんに確かめると、除け日というのは稲の祭り、麦の祭りなどの節(せつ) のことで、中之島などで聞いた旧暦1日と15日に守った逼塞の日とは別ではないかという。

曖昧なところはM婆さんに直接聞けば、はっきりする。ただ、ご本人は話したい気持ちと、話したくない気持ちがあるのではないか? 私の方にも聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちの両方がある。さし当りは年寄りたちの思いが理屈に合わぬところがあっても、軽んじてはいけないと考える。

部落総出の作業になる月に一度の資源ごみ回収は、きょうの予定だった。それが急きょ前日の土曜日に繰り上げになった。ヒチゲーだったのをうっかり忘れていたのだという。

村営フェリー「としま」は土曜日に着く予定が時化のため鹿児島出港が繰り延べになり、きょう着くことになった。船は島の命綱。ヒチゲーだからといって、港に入ってくる船を放っておくわけにはいかない。

やりくりのつく男手が岸壁に出て船を待った。船から降りたばかりの2人もそのまま「綱とり」作業に加わる。きょうは格別に波が荒く、「としま」は7本ものもやい綱を投げてきた。1本も切れて飛ぶことがなかったのは幸いだった。

この5日間なぜか雨続きだったのが、朝方から日が射した。夜は久しぶりの星空。東南東の空にオリオン座と冬の大三角が見えた。写真機を取り出して、宿の食堂の窓からレンズを上に向けてみた。
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