じじらぎ

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∇…034
∇…039 島の雨は横、あるいは斜めに降る。風にあおられるためである。本年度最後の村営フェリー「としま」上り便で、ひとり残っていた異動対象の先生が島を去った。見送りに行って、宿に戻ると本降りになり、めずらしく雨がほぼ垂直に降った。

2000分の1秒の高速シャッターでまっすぐ降る雨を撮ってみた。それを露出補正処理したのが、上の写真。下は写真機にお任せでシャッターを切った普通の写真。雨の正体を写真でとらえるのは難しいことが分かった。

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去る者、残る者

∇…018  28日昼過ぎ、村営フェリー「としま」の下り便で3人の先生が小宝島を離れた。岸壁では教え子と親、それよりも多い数の島の人たちが見送った。

この日は朝8時から先生たちの引っ越し荷物が積み出された。島の人びとがあつまり、鉄かごの無蓋コンテナ3個に冷蔵庫や洗濯機、タンスなどを丁寧に収める。雨のなかの作業となった。

分校が始まって以来、続けられている作業。最近は村から形ばかりの手当が出るのだそうだが、それがあってもなくても難儀な仕事であることに変わりがない。

「としま」は岸壁を離れるとき、港を出るときに、ひときわ長く汽笛を鳴らした。

これを聞く思いの深さは、おそらく見送られる者よりも岸壁に立った者の方が深いのかもしれない。残される者の胸の内にあるのは別離の感慨だけではない。もっと切ない別の思いもありそう。

岸壁と船の上は色とりどりの紙テープでつながれ、すぐに切れてしまった。 紙のテープは、両端を握る者の“温度差”をキチンとつたえただろうか?

アサギマダラ

∇…023 裏の菜園にアサギマダラが飛んできた。島ではとりたてて珍しいことではない。季節の移り変わりとも密接な関係はなさそうで、年じゅう姿をみる。

ただ、さいきんの蝶は接近しても頓着しないように見える。これも季節とのかかわりを思わせない。島の蝶のもともとの気風なのか、あるいは、私がだんだんと枯れて、土くれのような島の自然と化しつつあるのか?

∇…047  このつた草は蝶とあまりかかわりがないのかもしれないが、ことのついで。島の人に聞いたら「ナマム」 という。なぜナマムなのか分からないという。なんとも、つかみどころのない変な名前のまま島じゅうを覆っている。

宿の図書室にある図鑑ではブドウ科の「ヤブガラシ」がいちばん似ている。藪でも庭木でも、しつこくからみついて弱らせてしまう。別名、ビンボウカズラ。

島では必ずしも厄介者扱いをしない。冬場は牛の飼料になる。草の少ない時期だからありがたいが、冬以外の季節に牛に与えても見向きもしないという。冬が終わればウシマタギ( 念のため、これは私の勝手な命名)。

島でありふれたつる草は、ほかにキジョランがある。これは以前にも紹介したとおり、蝶類がよくとまっている。ただし、ほんとうにキジョランかどうかは、これも分からない。サルトリイバラに似ていて、蝶が好む草…ということで、ひとまずキジョランということにしている。

誕生日おめでとう!

きょうが誕生日のすべての人へ。 おめでとうございます。

年をとるのが嫌な人にも、やっぱりおめでとうございます。

365日、どんな日にも

みんなおめでたい瞬間がある。

自分自身には、誕生日でない日を祝って、

いつものとおり焼酎のダイヤメ(晩酌)。

新月なので久しぶりに夜中に庭に出て空を仰いだ。やはり真っ暗

いずれ、いずれ

そう遠くない日に星の降る日が来るはずだ。



白昼堂々と正々堂々

∇…157 これもきのうの話。 湯泊の露天風呂で三助作業をしていたら、爆音がした。 音の方向を見上げると、やっぱり軍用機の暴走行為だった。

濡れた手を拭くのももどかしく、写真機を空に向けてめくら打ちして撮ったのが上の写真。 轟音であたりの空気を裂きながら目の前を飛んだと思ったのに、小さくぼやけて写っている。

初めて成功(?)した写真でも標識を見分けることなど出来ない写り方なので、所属不明。形、というより影から推してジェット戦闘機には違いない。

この手の戦闘機の暴走は月に2度ほどのペースであった。白昼堂々、アクロバットもどきの超低空飛行。今にも屋根を引っぺがされそうな衝撃があった。寝ている赤ちゃんが引きつけを起こしたこともあるという。

鹿児島市いづろ通りで「正々堂々」の辻説法をしている国会議員が昨年、ヘリコプターで小宝島にやってきた。予告なしの不意の訪問だった。

爺ぃの申し出に応じて宿を訪ねてもらっている、ちょうどその時に白昼堂々の無謀飛行が走り、「正々堂々」さんの肝を冷やした。 当然のなりゆき、白昼堂々に正々堂々が怒った。

その後、無謀飛行はピタリとやんだ。議員さんが外務省にかけあい、外務省から米軍に申し入れをしたらしい。やはり暴走行為をしていたのは米帝国ブッシュ組系の構成員だった。

正々堂々さんへの報告のために、記録を確認しておく。日時は2009年3月25日午後4時18分。湯泊港と小島の間の水路上空を南に2機飛んだ。往復ビンタで、帰りも飛ぶのが定法だったのが、この日は往路(?) のみ。

水路のすぐ南には村営診療所がある。付近にいた人は「診療所の屋根をかすめて飛んだ」という。私の視認ではそこまで近づかなかったような気がするが、そんな風に感じる人がいてもおかしくない飛び方だった。

別れ

∇…081  船が出るたびに港では別れがある。25日朝は分校の卒業生3人が島を出た。今度高校に進む子が2人、鹿児島市の中学に進学する子がひとり。

みんな良い子だった。 そう、みんな可愛く、やさしかった。年相応なのか年以上なのか分からないけれども、それぞれにしっかりしていた。

島の豊かな人情に育まれ…というのがお決まりだが、心安くそんな物言いをしたらウソになる。

島びとの人情が平均的な日本人よりも豊かであるというような話は請け合わない。そんな無責任な発言は島に暮らしていると出来ない。

強いて言えば、マアマア。 そのマアマアが心に響くことがある。 なぜそうなるのかは分からない。 ひとまず、島の風土のせい、潮風のせい…と逃げておく。

……常よりもヒネクレの度が過ぎたかもしれない。 

その訳を言えば、3人の卒業生のほかに、もうひとり島に育った少年がいた。それをうっかり忘れてしまっていたのを悔やみ、自分に腹をたてている。

山海留学でしばらく島にいたが、卒業は内地の学校だった。だから、卒業生の列には加えられず、卒業式の記念撮影では最後列にその他大勢として控え、顔の半分は隠れている。

卒業式の翌日、分校の校庭で偶然出会って、少しばかり口をきいた。利発で細かい心配りができる子がいるのが心に残って、宿の女将に正体を尋ねたらその子だった。

この子は岸壁を離れる船の上でテープの端をとることもなかった。 船に乗る前に言葉をかけたら「また来ます」と言ってくれたのが、せめてもの慰め。 

分校の卒業式

∇…074 23日は岸壁での送別につづいて、島では大事な年中行事があった。宝島小中学校小宝島分校の卒業式。島の人たちも正装して集まった。

ことしの卒業生は中学2人、小学1人。これを在校生4人と教師7人が送り出す。卒業生3人のうち2人、在校生4人のうち2人は親が島外に住む山海留学生。

先生7人も、正職員は2人だけ。臨時採用の先生は来年度1人しか残らないらしい。あとの陣容は未発表だが、正規の先生が家族連れでくる話もあり、少しにぎやかになりそう。

念のため、今までがさびしかったわけではない。小宝島というのは不思議な島で、子どもが多いわけでもないのに、いつも賑やかな子どもの声がする。

この島の子どもたちは、どこの子よりも伸び伸びしている。大人たちのずるさ、愚かさを知らないはずはないだろうに大人を信頼している気配。大人どもはみんな自分の味方だと思っている。 

“味方”というのは、必ずしも対等な関係を意味しない。もっとはっきり言えば、頼りないけれども、お人よしで忠実な子分…というところか。 

島の名前を子宝島と間違う人もいる。 この手の罪のない思い違いをとやかく言うことはないのかもしれない。

“最後の航海”上り便

∇…047 村営フェリー「としま」は悪天候のため出港を見合わせ、名瀬と宝島に停泊した。23日の上り便は一日遅れ。この便が船長の最後の最後の航海。夜、鹿児島の港に入り、船長は任務を解かれる。



∇…∇…050 往路、略装だった船長は、黒い制服で小宝港の岸壁に降りてきた。岸壁には綱とり作業の男手をはじめ老若男女30人ほどが集まり、別れを惜しんだ。

子どもたちは船長と並んで記念撮影、年配の島人たちは船長の手を取って別れの挨拶をした。いちばん年かさのお婆さん2人はハンカチで目頭をおさえる。

子どもたちは屈託がない。誇らしげに船長の横で直立不動の姿勢をとったり、Ⅴサインのポーズをしたりして記念撮影したが、昔のはしけ作業を知っている人たちは、船と船長には語りつくせない思いがある。

小宝港に「としま」が初めて接岸したのは1990年(平成2年) 4月のこと。それまでは湯泊の入り江からはしけを出した。日本最後のはしけ通船作業といわれた。

はしけ通船が楽だったから最後まで残ったのではない。湯泊と小島の間には珊瑚礁の複雑な海底地形を縫って速い流れがある。すり抜けるのにも並はずれた技術が必要だが、「としま」はここに停泊して人と荷物の積み降ろしをした。

風のない日でも波はたえず動く。本船とはしけでは揺れ方が違う。慣れた人なら間合いを読んでポーンと飛び移るが、荷物は自分で動かない。牛は海を泳がせて起重機で積み下ろしした。

宿の女将の話によると、この水路に「としま」が半日もの停泊を敢行したことがある。日照り続きで島の貯水槽がことごとく干上がったため、積んできた水を降ろしたのである。次の寄港地・宝島からはさすがに苦情がきたという。

風向きが悪いと湯泊の反対側、横瀬海岸の沖合に停泊した。ここにははしけが接岸できる大きさの入り江がない。「としま」本船に積み込んである小さなボートを出した。裏側の湯泊まで回るわけにはいかない。

横瀬海岸は波打ち際まで珊瑚礁原が広がる。のこぎりの刃のようにとがった珊瑚礁の起伏が延々と続き、道はない。四つん這いになりたいところもあるが、手袋をしないまま不用意に手をつくとケガをする。

リヤカーはもちろん一輪車も使えないから、燃料のボンベなども担いで運んだ。横瀬にしか着けない…と聞くと、それだけで腰が抜ける思いだった。 腰を痛め、膝を悪くした島人の生き残りたちが今、船長の手を握って放そうとしない。

船長はずいぶん長い間、岸壁に降りていたように思った。それは勘違いで「としま」の接岸時間は10分余。普段よりも早くもやい綱を解き、次の悪石港に向かった。

最後の航海

∇…053 船長さん最後のおつとめの仕事現場に押し掛けた。海はそこそこに荒れているのに艦橋にそれほどの緊張感はなく、むしろ静穏なたたずまい。

船長(写真の左端) は略装で、船は次席船長が動かしていた。舵をとっていたのは、どこかの街道で暴走行為をして顰蹙をかっていてもおかしくないような年代の青年。どこか少年の面影さえ残している。

二等航海士なのか、次席二等航海士なのか? ひょっとしたら、見習いをはじめたばかりの三席二等航海士?  「みんなしっかりしている。私のすることはない」と船長。

外国航路に乗っていて、七島航路の船長は昭和60年(1985)からという。「第三としま丸」のころである。いまのフェリー「としま」には設計の段階からかかわった。

艦橋には先客があった。船の設計を手掛けたT博士で、最後の航海というのを聞いて駆けつけ、名瀬港まで同行することになった。違う立場ながら七島灘の荒波に一緒に立ち向かった、いわば戦友。

フェリーとしまの性能は、日本沿海最悪の航路、および港の条件の厳しさによってつくられた。設計の段階で博士とは何度も喧嘩をしたという。「日本一の船」は設計者と船長の合作だった。

それでも、港の前まで来て通り過ぎないとならないことがある。誰が言い出したのか「抜港」という。「なにが悲しいといっても、島の人が待っているのに港に寄れないことがいちばん」。

定年後、あちこちから誘いもあるらしいが、「今しばらく、ほかの船に乗る気にはならない」。「『としま』のことは、一日や二日では語りつくせない」とも。いずれ、じっくりおうかがいしたい。


小宝港接岸

∇…095 船は揺れた。自称他称の“なぎ男”も、ただの偶然で、一個人に波風を鎮める能力があるはずはない。それでも村営フェリー「としま」は小宝港に接岸した。荷物も陸揚げされた。

∇…120 錨をあげて宝島に向かう「としま」。いつもと違って港を出るのに時間をかけた。 奄美大島の名瀬まで下って、翌日未明に復路をとる予定。しかし、この天気では名瀬港か宝島港にもう一日停泊し、上り便は一日遅れになるのでは…という。

「としま」最終便

日記以外のことをサボらないでアクセクすると日記をサボる始末になる!? ……これは、やはり言い訳か。

きょうの「としま」に乗ってみようという気になっている。今の船長さんが定年で、この便に乗るのが最後のおつとめという。

船長さんの顔は小宝島の岸壁からいつも見ていた。ただし艦橋は高いところにあって、窓越しに見る顔はあまりにも遠い。

非番の船長さんに連絡をとって、近くから働いている顔を見たいと申し出てみた。あっさり「いいよ」と言っていただいた。

変態と間違われなねない妙な趣味かもしれない。 自分では、自称他称の有名人の品のない顔をテレビなどの画面で漫然とながめる行為の方が悪趣味だと考えている。


……あまり電源をいれなかったコンピューターをこれから梱包し、船に積み込む荷物に入れる。あとは航海の無事を祈るのみ。

世はなべて事もなし

ぐうたらな暮らしの場を島から街に置きかえても、一日にいろんなことが起きる。そして、街で何ごとか起きると必ずお金がかかる。

スーパーマーケットの駐車場に、やっと空きを見つけて車を頭から突っ込んだ。買わなくてもいいようなものまで買って駐車場から車を出す。入れるときにズボラした分だけ気をつかう。

それでも、何ごともなく駐車場の雑踏を抜け出た。その足で近くのガソリンスタンドに寄る。 満タンにして、いざ発進。 

ん? もう一度、発進! ん?ん? …何度やってもエンジンがかからない。 ガス欠の心配はたった今、解消したはずではないか?

日曜日の「無人」給油所にも人がいた。やむなく助けを求める。見てもらったらバッテリーが完全にダメになっているという。取りかえてからまだ1年たっていない。 なぜだ?

原因は程なくわかった。ベルトが2本ともゆるんでいた。 それにしても、なぜスーパーの駐車場を出るときはエンジンが起動できたんだろう?

前回、久々に鹿児島に戻って「有人」の給油所で給油したときも予想外のもの入りがあった。このときの油代はなんとリッター185円なり。高い分のモトを少しでもとろうと、タイヤの空気圧を見てもらった。

その際、タイヤに釘が刺さっているのが見つかった。長いこと刺さったままだった気配。タイヤの成分と化した風にもみえる。

給油所の青年に「このまま放っておきますか?」と問うと、困惑した顔で返事をしない。やはり修理しておかないと、遠くない将来に、走行中バースト! という事態は避けられそうにないようだ。

このとき以来、給油所に寄るたびに油代だけではすまない。身の不運を嘆くと、友人から叱られた。 「運がいいんだよ。スタンド以外の場所でことが起きたら、どうするんだ!」

50年ほど前、誰かが考えた交通安全標語を思い出した。真実に迫る名句ながら、ついに採用されなかったが、倹約の標語としても有効である。 いわく、「乗るな 歩くな 通行するな」。

じじ問題

時事問題ではない、爺問題。ほんとうは爺婆問題とすべきだろうが、より厄介なのはやっぱり爺の方だろう。ひとまず爺問題。

生きていくことをトカラのジジよりも真面目に考えているチビ熊さんという方からコメントをいただいた。近所のおばあさんにいろいろと教えてもらった…という。昔の年寄りには本物の知恵があった。

このごろの爺ぃたちは若いものを導いていく力がない。婆ぁだけが頑張って、爺は再生不能の生ゴミと化したのに本人は気づかず威張るばかり。不思議な現象である。

ジジ(この場合は私のこと) の父親の世代は戦争で命を消耗した。消耗は公平さを欠いた。誠実かつ優秀な人ほど消耗が大きかった。

逆淘汰である。 品性、人間性、知性、いずれをとっても劣る者が生き残り、滓が世をはばかる。戦後の日本は有害物質をたっぷり含んだ粗大ゴミが大きな顔をして世の中を引きまわす時代に入った。

戦争に負けた後、田畑や漁場を売っぱらうのが流行った。農地の転用や入り会い権、漁業権の放棄、売買…。先祖代々の生業では食っていけないというのである。

代々守ってきた生産手段、値のつけようがない海まで一代で売っぱらった。 豪気なものだが、そのお金はいったいどこに行ったんだろう。

一部については思い当たる節がある。子弟の教育費である。 これから先は頭を使って生きていく世の中…ということになった。勉強に向かない子、学歴がなくてもキチンと生きて行けるまともな子どもまで無理して進学させ、遊園地化した大学で遊ばせる。

国は教育は大事…と言いながら、金は出したがらない。金が出せないなら知恵を出すのかと思うと、無い袖は振れないというのが現実。知恵がないのが偉そうに、見当はずれの押しつけばかり。

かくて親も無理、子も無理を重ねたあげく、学歴をもつ若者の仕事場がない。家元に帰るに帰れず、喫茶店のようなところで雨露をしのぐ者まで出る。

「イワンの馬鹿」というお話にも出てきた。無理して頭をつかうことはないのだ。階段は足で降りた方が楽。頭で降りたら瘤だらけになって具合が悪いではないか…。

……この勢いでは、愚痴が延々と続く。朝っぱらから人に聞かせる話ではない。 自分だって鬱になる。続きはいずれ、気分を変えてやりたい。

最後にお断りが一つ。 おばあさんでも新入りはダメである。ジジの年代、つまり小泉純一郎、小沢一郎、お隣では金正日らの因業な年代、これ以降になると爺どもが飛び切りダメなのはもちろん、婆どもも碌でもない奴が増えてくる。

機会均等の世の中。 もともとは効き具合に性差があった毒が女性にも等しく回り始めた。このまま男が中性化、女性化していけば、近い将来には爺問題よりも婆問題が深刻になるのかもしれない。

老々介助!

∇…200903121201000[1] なんの変哲もない風景だが、この写真に写っているのは島にないものばかり。信号機、横断歩道、路面電車、それにビル。

小宝島の最高層建築は定宿のパパラギである。木造2階建て。 学校や診療所などの公共施設も鉄筋コンクリート造り平屋建てが基本仕様。みんな海水面とほとんど同じ高さのところで寝起きする。

風がつよいから頭を低くしてしのぐ。 日傘はささない。紫外線は前後左右、上下の別なく乱反射して全方位から露出部分を照射する。室内に居ても日焼けする。

島では、私が男で2番目の高齢者である。しかし、鹿児島市の通りを昼下がりに歩くと、島の爺ぃも若造と化する。年輪不詳、生死不明の爺さんがいっぱい徘徊している。 たいした用事があるはずもないと思うのだが、みんな忙しそう。

郊外の温泉場も爺さんでごったがえしていた。年齢が足りないのになんとなく引け目を感じて、早々にあがると、脱衣場で難渋している人がいた。

肌着を着るのに肩のところでねじれて進退きわまっている。ここで見て見ぬふりをするのは人としてあるまじき振る舞いではないか…と悩んでいると、魚心あれば水心。先方から救援要請があった。

さりげなく助けを求めるところは、やはり年の功。こちらも妙に気をもまずに済む。ありがたいことである。

87歳という。 鍬一本で土にまみれて仕事をしてきたという話になった。鼻たれ小僧としては、裸ながらも居ずまいを正して神妙に拝聴した。

途中下車

∇…030 きのう午前4時過ぎに起きて支度をし、7時40分ごろには「としま」の船上にいた。今、鹿児島市船津町のビジネスホテル。なお旅の途中である

これからバスで、鹿児島市北端にある寓居に向かう。残された移動距離はおよそ18㌔。小宝島-宝島間よりも、わずかに長い。タクシーを使おうか迷ったが、宿をとった。途中下車の気分。

予約はしていない。ホテルの前に来て、看板の電話番号をみて携帯電話で問い合わせたら空き部屋があった。

部屋にはいってびっくりした。清潔で設備も行き届いている。加湿器、オゾン消臭機、ズボンプレッサーが備え付けられていた。テレビは横長の新式液晶。

久しぶりにハイビジョンの映像を見て、インターネットのケーブルをつないだ。ブログの管理者ページを呼び出し、いま移動先での書き込みを初体験中。

些細なことながら一番感心したのは引き出しにあった「オフィスセット」。 鋏、セロハンテープ、糊は知る人ぞ知る旅の必携品と考えてきたが、宿に備えつけてあった。シャープペンシルの替え芯まである。

宿賃が安いから選んだ。場所が辺鄙なわけでもない。 商売人が商売を知らないと思ってきた故郷の県都で、客の気持ちを汲んだ商売がようやく始まった。

むかし新潟市で宿をとったことがある。ホテルが安く、サービスも行き届いていた。新幹線が開通してホテルが乱立し、過当競争のさなか…と聞いた。

これと似た状況が今の鹿児島市にあるらしい。 が、むかしの新潟とは少し違う。今はバブルの泡のあとも見えない不景気のさなか。過当競争ということではなく、時代が変わったと考えたい。

【写真は10階建て9階の1室。島の宿の女将が出がけに持たせたポンカン、携行したコンピューター以外はすべて宿の備え付け。念のため、ベッドの上の汚い足も持ち込み。いちばん重い荷物?】

村営フェリー「としま」

∇…046 今度の「月曜出し」、つまり月曜日(9日) 深夜に鹿児島港を出港する十島村営フェリー「としま」は、出港を見合わせるのではないかと気をもんだ。

この1週間ほど天気が悪い。 きのう9日は小島と湯泊港の水路では白波が狂ったように走っていた。 船が出なくても仕方がないと覚悟していたら、出た。

一夜明けたら空が晴れ渡っていた。おかげさまで久々に日の出を拝むことができた。 (おかげさまで、このブログの冒頭に掲げた日の出定点観測の写真も新しいものを追加することができた)

「としま」は予定よりも早く午前11時半過ぎに小宝に入港した。 荷物の積み降ろしもとどこおりがない。なべて順調。

岸壁には特段の用もないのに、なんとなく船を見にきた島人たちがいる。曾孫といっしょにやってきたミヤ婆さんは、鹿児島から帰ってくる息子の出迎えよりも船長の顔を見にきた。

「あと何回、港に寄ってくれるものか…」。 船長はこの3月で定年である。最後の航海で小宝に寄るときは、これまでのご苦労のお礼に心づくしの手料理を持たせたいという。

船が岸壁を離れるとき岸壁の島人は船長に手を振った。 船長は艦橋の窓から顔を見せ、白い手袋をした手を振る。

ミヤ婆さんは振らない。そんなことはあまりしたことがない。 が、船長の最後の航海の時は、ひょっとしたら手を振るかもしれない。

きょう10日小宝の岸壁を離れた「としま」は宝島に停泊して、あす朝7時15分ごろ、鹿児島行き上り便として出港する。小宝港に寄るのはおよそ30分後。

その便に乗ることにした。乗りたくて乗るのではなく、よんどころのない用事。 予報では明日午前中も晴れ。 爺ぃはまたも“なぎ男”になりそう。

【写真は10日午前、小宝港口に向かう「としま」。島影は宝島】

バジルも生きていた!?

∇…033 ナスの木について、北海道のキンタローさんから話をうけたまわった。ナスはもともと多年草だから木になってもおかしくないのだという。

ほかにバジルなどもそうだ…という。なるほど、バジルは図らずも裏の菜園で奮闘している。いつまでも元気そうにしているのを当たり前と思いこんいて、有り難いこととは思っていなかった。

ときどきは葉を頂戴して、パスタ料理などの添え物に使わせてもらっている。日常的にごく自然にお世話になっているために、草が静かに越冬中であることに無頓着になっていたのである。

バジルの種を買ったとき、袋に「一年草、または二年草」と書いてあったのを覚えている。鹿児島あたりで一年なら、小宝で二年くらいもっていいではないか…。その程度の心得で、特段に目をかけるということもしないできた。

キンタローさんによると、バジルは本来は多年草という。 今どきは生き続けていることが社会悪の扱いを受けるご時世だが、敢えて命を終わらせる振る舞いに及ばなければ、やがて草も木になる。

いずれ『パパラギ樹木銘鑑』、あるいは『小宝島樹木紳士録』に、バジルも列せられることになりそう。そういえばローズマリーはいつのまにか“木族”階級の扱いをしていた。昔から生えていたというような顔をして菜園や庭のあちこちに控えている。

日当たり、風の通り方の違うところにあちこち植えたのがすべて根付いた結果である。鹿児島から苗をもってきたもの、挿し木によるもの、いずれも健在。これは燻製のときなどに、ひと働きお願いしている。

多年草といえば、レモングラスも間違いなく多年草。しかし、木族を目ざさない。グラスの分際を悠々とまもっているところは、また立派である。

これも庭の4カ所に昔からあった風景の如く控えている。先日はわざわざ島の人が貰いにきた。お茶にして飲むのだという。

【写真は畑の片隅で、いつの間にか灌木になっていたバジル】

ムラサキカタバミ

∇…061  庭の草の項で、カタバミの花は黄色も紫もあると書いた。別件で杉本正流著『鹿児島の植物図鑑』(朝日印刷書籍、1989年) を調べていたら紫色の花のカタバミは別種と書いてあった。姿は似ているが出自が違う。

和名はムラサキカタバミ。中南米、西インド諸島の原産で、18世紀に渡来した帰化植物という。薩摩半島北部・出水地方の方言ではバクダングサ、甑島ではヨコハマソウとか。

著者は「除草がもっとも困難な雑草」とし、この草のために畑を耕作放棄した事例をつたえている。小さな球根がはじけて爆発的に繁殖するらしい。庭のクラスター爆弾。

ヨコハマソウという方言名は「毛唐瘡」(けとうがさ) という言い方があったのを思い出させる。これは西インド諸島の風土病だった。コロンブスのいわゆる「新大陸発見」からそれほどの間をおかず日本にも渡来した。

植物と性感染症とでは、伝播の速さに3世紀ざっと300年のタイムラグ(時間差) があった。感染媒体としての人間は植物の爆弾よりもずっと強力らしい。


野菜の果樹化

∇…017 (2) インドではナスが木になる…と聞いたことがある。 そんなことがあるのなら、小宝島でナスを木に育てても神さまは怒るまい。 小宝は地球のヘソだ。世界中のどこにでも通じている。

なぜ小宝島がヘソなのか? といった真面目な質問には応じられない。 いつ見ても暇そうにしていて、役に立つのか立たないのか分からないが、とにかく真ん中。

その島の、さらに真ん中にある竹の山(103㍍) は、丸い珊瑚礁から突出した出ベソの形をしている。 それで決まり。むずかしい説明は要らない。 アッサム地方も奥尻島も、北極点も南極点も竹ん山に通じる …と信じていいのだ。

さて、話はナスだった。 立派に役目を果たしたナスの苗を、そのまま残してみた。 それが冬になっても枯れない。 先月は異常に暑い日が続いて、25度を超すときもあった。こんなことがあってなるものか…と思っていたら裏の畑ではナスが花をつけた。

∇…016 どちらが先だったのか、忘れてしまったが、オクラにも頑張ってもらうことにした。 オクラは2・5㍍ほどの高さまで延び、空に花を咲かせ、手の届かないところに実をいっぱいつけた苗が3、4本あった。

こんなに元気のいいのを季節が終わったからといって引っこ抜くのはしのびない。 放っておいたら茎の根元から新しい葉を出すのがいた。

今のところ生命反応があったのは1本だけ。 あとの苗は枯れたように見える。 しかし、しばらく様子をみないと分からない。 死んだふりをしているだけかもしれない。

∇…010 宿には大きな貯水槽があって雨水をためている。 槽はいつも満杯に近い。 風呂や洗濯、トイレの洗浄用に使っているが、槽が大きいので使いきれず、涸れたことがない。

槽の底の近くでは、水が染み出しているところがある。 ここに剪定したあとの枝を捨てないで差しておくと、かなりの確率で根づく気配である。 これもまだ実験の段階。 レモン、ダイダイ、ナス、ハイビスカスなどの枝が枯れないまま、肩をよせあっている。

授業参観

∇…011  分校 (十島村立宝島小中学校小宝島分校) の授業をのぞいてみた。この日は高校受験などで欠席がいて、各学級が先生ひとり、児童生徒ひとり。

上の写真は小学一年の学級の国語の授業。全員出席で、やはり1対1。分校の児童生徒数は小学校4、中学校3の計7人。先生も同じ数。先生7人のうち4人は正式採用待ちの若い人たちである。


∇…015  小学一年の教室の壁は、たった一人の児童のために貼りものがいっぱい。写真は児童による牛の絵。両耳の黄色い部分は、牛の個体識別のためのプラスティックの札を描いている。
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