じじらぎ

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再び島へ

∇…003  気分のおもむくところに抗しがたく、29日(金曜日) 発の「フェリーとしま」に乗った。客室は、自分の経験したなかでは昨年のレントゲン巡回検診いらいの混みよう。

レストランは営業をあきらめ、ごろ寝の寝室として開放された。船倉も工事用の車などでいっぱい。水曜日発の便が悪天候で出発を控えたため、人も荷物も2便分を一度に運ぶ。


∇…005  午前4時過ぎまでぐっすり眠った。 それでも、腰の具合がはかばかしくない。腰の痛みをおして甲板に出ても外はまだ真っ暗。 起きだすのを我慢して目をつぶる。 

再び寝込んで、日の出を見過ごした。5時50分ごろ甲板に出ると口之島の島影が迫っていた。太陽はすでに水平線を離れていたが、それはそれで絵になる。

かたわらの人が、太陽が撮れるんですか?と聞く。デジカメだとシャッターを押せばお日さまでもなんでも、とにかく写っているからデタラメに撮ってます…と答えたら、その人は液晶の記録で写り具合を確認したらしい。「ほんと、写ってる」と、夢中でシャッターをきりだした。

   
∇…020  2枚の写真を貼り合わせたようにも見えるが実は1枚。防波堤に口之島名物・野生牛と、トカラ「最北端」 の文字がかいてある。ここまで鹿児島港から200㌔余、あと150㌔ほど南に下ると小宝島。口之島がほぼ中間点になる。


∇…096  朝8時半、平島(たいらじま) の岸壁では鹿児島市であった集合学習、それと修学旅行の子どもたちの解散式。ここだけでなく港々で小中学生が整列する。この子たちも超過密の「フェリーとしま」 に乗っていた。


∇…069   「フェリーとしま」は船体を揺すりながらひたすら南下する。絶えず機関音をたてているのに、思わず「黙々と…」 と言いたくなる。船はひたすら、余念なく、海を往く。

ミズナギドリの群れが船の前を左に向けて飛んでいるのだけれども、遠くて動きも速い。写真では黒あるいは白のシミ。コンピューターで拡大してみると荒れた画面に鳥の飛ぶ姿が浮かび上がる。

    
∇…109  午後零時13分、寝そべる妊婦のような島が迫ってくる。これから7分後、小宝島に接岸した。真夏の日射しが待っていた。




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道の草々

鹿児島にいると忙しい。忙しいといっても何ごとか書く暇もないということではない。暇はある。書くことがない。かと言って何ごとか意味や意義のあることをしているのかというと、そうでもない。

そうそう。 マシーナって何だ…と聞く人がいたから、前回の蛇足の補足。

ジュリエッタ・マシーナというのはイタリアのフェリノ・フェリーニという人が監督した昔の映画「道」で薄幸のヒロインを演じた女性。どうでもいいけど、フェリーニ監督の奥さんを兼業しているという記事をどこかで読んだことがある。

映画「道」の話はしない。長くなる。 薄幸が“濃幸” だったかもしれぬといった妙な話を言葉で語っても、だれも分かってくれまい。必死になって長々としゃべったら、後で鬱になる。

喜劇のすぐれたものは悲劇の極まった形式のひとつだと思う。かといって「道」 は喜劇でもない。これを語れば、フェリーニ監督も「そんな面倒な話は知らない、分からない」 と言うに違いない。

分からないことは「分からない」ということにしておく。これが存外に大事。分かってしまうと威勢がよくなって、その勢いが怖い。短絡は正論正義を生む。正義は兇暴である。

……ここでアカペラ。  ♪~ う~みは荒らぁう~み~ こ~ち~ら~は~マぁゾ~よ ~ 

      --これが分かる人はアホ。マジメに考える人はもっと立派なアホタレ! m( _ _ )m

混乱してきた。日が変わって、このまま日がたって昼が終わり深夜になると船が出る。それに乗ってしまうのもいい。



ロング・ビーチ

∇…233 鹿児島に戻って、はて甑島は何だったんだろうか? と考え込んでいる。つまるところ一晩泊って仲間と飲んだだけで、あちこち案内はしてもらってもキチンと見ていない。

やはり、連泊逗留しないとその土地のことは分からない。デジタルカメラの記録を見てもロクな写真はない。見ることさえキチンとできなかったんだから、写真も写せない道理。

冒頭の写真は甑島・長浜の今の風景。高速船が発着する岸壁から集落に向けてシャッターを切った。公団住宅のようなビルが4棟。最近、自衛隊のレーダー基地ができ、隊員のための宿舎という。

その下には2階建ての住居や商店が道沿いにならんでいる。離島の集落というより、立派な町並み。長浜を英語で言えば「ロング・ビーチ」だが、お遊びの雰囲気はあまりない。

なぜ、そうなるのかは、いろいろと思ってみる。これはいずれ、書くかもしれない。書かないかもしれない。 

ひょっとしたら甑島は、トカラ列島、あるいはヤポネシアと袂を分かって「日本列島」に従属する道をまっしぐらに進んでいるのではないか…とも思う。

……憂き世のよんどころない義理だて、身過ぎ世過ぎのかなしさ。 いつか来た道とは言いながら、甑列島が日本列島の子分になる道を選ぶなら、芥子(けし) 粒のようなトカラ列島はどうすればいいんだ。

∇…182  民宿のご亭主とは、このことについて語る暇はなかった。いずれ出直せば良い。 

民宿の屋号は「道」だった。お母さんの代からやっているという。道の両側とも民宿「道」。左上の方の行きどまりの道は別館に通じている。つごう3棟。

食堂は真ん中の棟の広間。魚がおいしいのは甑島では当たり前。 当たり前のことを当たり前に守るのには、それなりの工夫苦労がある。

ご亭主は昔から天下無類のお人好し。それをこの年まで通している。スジを曲げずに亭主の天気の良さを支えてきた女将さんには相当の苦労があったに違いない。 

以下、蛇足……。 ジュリエッタ・マシーナは良かった。銀幕の世界では珍しく、ただの美人ではなく人間の顔をしていた。 脈絡はない。意味もない。「道」でつながって行き着いた連想。爺ぃの爺ムサイ独り言。

1泊2日

∇…035  
∇…053  1泊2日で、甑列島に行ってきた。なんという手軽さ。 日付は違うが、上は出発前の小宝島湯泊湾、下は高速船「シーホーク」の水滴でくもった窓越しに撮った甑列島。 つながった海でも日によって、所によって、違う。

∇…091  港では定置網の水揚げをしていた。大敷き網という大がかり、かつ効率的な仕掛け。通る魚を種類大小を問わず罠に誘い込み、囚われた魚を小舟でごっそりすくいに行く。

海が相手だから厳しい仕事だろうが、素人目には呑気で牧歌的な漁に見える。 といっても、ただの海でなく、豊かな海でないと網の仕掛け甲斐がない。

海が荒れすぎてもいけない。トカラ列島でもこの漁法を試みたことがあった。海の穏やかな時期を選んだつもりだった。網を仕掛けて間もなく、時化が一度来た。たった一度の時化で縄が絡み、網もずたずたになった。

甑島で罠から帰った船は、新鮮な魚で船腹を満たしていた。 小さな魚はほとんどが鯵。ほんものの味の乗った鯵。宿では煮物として膳に出された。鯵ほんらいの甘味、旨味があった。

∇…094 水揚げ場に先に揚げられていた中・大型の魚はシイラなどなど。 シイラはハワイあたりではトローリングの対象魚で、新鮮な肉はステーキにして賞味すると聞いた。甑島は郷里の浜といっしょ。あまり珍重しないらしい。

シイラの方言名は、マンビキという。郷里の浜でもマンビキ。1匹でもマンビキ。 塩漬けにしてかまどのある土間の高い梁にぶら下げ、炊事の煙で燻して保存した。それで保存がきいた。(…あるいは、保存がきいたつもりにするという不文律があった?)

古くなるとカラカラに干上がり、カビ臭い。その切り身のあぶったものが飯の真ん中に張り付いている。それが昔の弁当だった。

…きのうも弁当のおかずはマンビキだけだった。きょうもマンビキ。そして、あしたもマンビキ、あさってもマンビキ。 

飯の真ん中のマンビキに立ち退いてもらうと、マンビキの安置されていた形がくっきり黄色くのこった。それだけ。それが弁当のすべて。マンビキがあるうちは梅干しも節約された。

ほかに食うものがなかった。ひもじさだけでなく、貧窮・欠乏もまた最高の調味料。 水揚げされたばかりのマンビキをみると、いつかハワイ式にバター焼きし、ナイフとフォークで食ってみたいと思う。

∇…217  下甑の西海岸。山が海に落ち込み、奇岩が多い。それと、なんとしても圧倒的、濃密な照葉樹林。この季節のもくもくと雲のように沸き、視野いっぱいに広がる山腹の緑の色相の輝きには息を飲む。

∇…157  照葉樹林に最接近した。実は投宿した民宿の庭兼畑と、それにつづく裏山。人が植えたり、生えるがままにした樹木が、目前に迫る深く広大な自然林との緩衝をなす。




さて、なぜ甑島なのか…という話。

下から2番目の奇岩の写真の端に写る人影は「おじさん」 と「おばさん」 である。 「おばさん」 については前におしゃべりしたことがある。立派な年をそれなりに食った、おばさん、おじさん。

実は高校時代の級友たち。気の合った同士おしゃべりしているうちに、同級生が甑島でやっている民宿に泊まりに行こうや…と言う者がいた。はずみで、「半世紀ぶりのことだから、気の合わない奴にもたまには声をかけようや」と言いだす者がいて、急きょ偏屈爺ぃも末席に加わることになった。

級友がやっている民宿は老舗だった。規模も大きい。ヤンチャ坊の面影をどこかに残したご亭主に入門を懇請し、しぶしぶながらも認めてもらった。

甑島へ

きょう午前8時10分に串木野港を出る船で甑島に渡ることになった。今から中古の軽自動車を転がして串木野港に向かう。

国道3号線を北に向かいおよそ40㌔、1時間ほどのドライブ。最終目的地は下甑の長浜。 なぜ長浜なのかはいずれ…。

∇…029 ∇…061

この2カ月あまりのうち、初めて海を見ないで一日を過ごした。用事はそれなりに片付けたつもりなのに、なにか物足りない気分。

写真はその埋め合わせ。左が20日、「フェリーとしま」上り便が、口之島港に寄ったとき。右はきのう22日友人たちと待ち合わせをしたさい、時間つぶしに鹿児島市街のビル15階の窓から見た錦江湾(鹿児島湾)。

脈絡はなにもない。ずっと繋がっている海でも、ところによって過密度が違うのが面白いということにすれば、面白いのかも? コンピューターで原画に少し手を加えたら、実際以上に色が鮮やかなケバい写真になってしまった。

おばさん!

街に出ると、いろんな人に出会う。親しみと、甘えのような気分を込めて「おばさん」 と呼びたくなる人もいる。

きょうも、そんな人に出会った。世話をかけたが、損得勘定抜きで応対してもらった。

仕事を懸命にしている人、他人に誠意をもって接する人は美しい。これは男女を問わない。実年齢も関わりはない。

「おばさん」 は、生活の垢にまみれていても輝いている。有名人やセレブの世界ともブランド物とも縁はないけれども、そんなものに馴染んでいるヒエ臭い女どもには、及びもつかない品がある。

男にも仕事を立派に、そしてさりげなくこなしている人がいる。ただ、自分が男であるというよんどころのない事情があって、気安く「おじさん」 と思うわけにいかない。

ずばり申せば、男よりも女がいい。ほんものの女性が本来もっている柔らかさを男に求める趣味は、年をとってもついに持ち得なかった。いまだに女性にこだわる不自由をかこつ。

男はどこかゴツゴツしている。ムサい。 「文化の垢を背負っている」 と言った人もいるが、自分が男であるという宿命はいかんともしがたい。

男にたいしては“寄らば斬るド” というところまで行かないにしても、ついつい構えてしまうところが、どこかにある。難儀なことである。女の敵は女…というが、男とて同じ。

“おばさん” は必ずしも年上である必要はない…。 とは言いながら、いちど抗議を受けたことがある。「おばさん! おばさん!って気安く言うけど、私はあんたより年下なんだからね」。

おばさんがカウンターの内側で中華鍋を振るってつくるちゃんぽんは絶妙だった。ほかの人が真似をしても、なかなかそうはいかない。強火のガスコンロに立ち向かうときの気迫が違う。

だから真正の「おばさん」。 「おばさんがダメなら○○子ちゃん? それとも○○子さん?」 と聞いてみると、本人がふき出した。 「どっちも気色が悪い」 という。 結局は、もとの「おばさん!」。

百十数歳まで生き、当時世界一の長寿といわれた奄美の泉重千代さんにインタビューした記者のなかで遠慮のない質問をした人がいた。 「どんな女性が好みですか?」

重千代じいさんは、しばし考え込んだ。 そして一言、「やっぱり、年上がいいナ」。

じいさんが好もしく思った人は、すべてあの世に逝ってしまった…。 過去の甘い回想にひたるのみ…などとクソまじめに考えてはいけない。 

重千代さんは女性の訪問を受けるとことのほか喜んだという。 いい女は若くても“おばさん” であったらしい。

巡回検診

鹿児島の夜が明けた。雑用はいろいろある。とりあえず片付けないといけないのは、島暮らしのための物資の確保と積み出し。「フェリーとしま」は月曜、金曜出港と決まっているから、タイムリミットはあす夕方。

昼過ぎまで各方面への連絡、郵便局などでの手続きをすませ、ひと仕事したような気分になっていた。物資の調達はあすまでにのんびりやればいい。

昼飯をいい加減にかたずけ、ひと眠りしようかと思っていたところに宿の女将から電話があった。特段の用事はないが、気になることがあるという。 「今度の船便は年に一度のレントゲン車の便だということを、まさかお忘れではないでしょうね…」。

その「まさか」だった。 普段は金曜日に鹿児島を出港する船が一日繰り上げてきょう木曜日に出るのをすっかり忘れていた。きょう夕方までに物資の調達と積み込みをしないと間に合わない。

2日分の仕事と考えていたのを半日でやっつけるのは、やはり無理があった。粗漏はやむを得ないとして、腰と心臓に響く。5体(ごて) の老朽化は隠しがたい。

∇…134 しかしまぁ、これもまた有り難い。年に一度の巡回検診では大型バス2台の検診車が7つの島を回る。このために特別の運航ダイヤを組み、出港は1日くりあげる。 

いずれにしろ大変な手間である。その手間が、しかるべき要員をあてて続けられている。

【写真は昨年5月27日、各島を回った検診車】

鹿児島日記~20

船は午前8時に小宝港を出港して午後8時10分に鹿児島港に着いた。“なぎ男” は面目を保った。船の上ではいろんな人と再会した。

鹿児島市の辺境の外れにあった寓居は、あった。前のまま、あった通りにあった。 闇の中で鍵穴を探りだして、ブレーカーを上げて点灯したのが9時15分ごろ。

それから、放置していた車のバッテリーが生きているのか、「お客さまの都合」(料金未払い) で止められていた電話回線が回復しているのかどうか…などの確認をして、コンピューターの回線をつないだ。ひとまず異常なし。

電話回線が回復したのは間違いない。しかし、かけた相手はみんな出ない。機械は正常に働いている。先方の人的な不具合、つまり多忙、あるいはなまぐさで通じない。

くたびれた。続きはいずれ。

∇…062

宝島から折り返してくる今朝の「フェリーとしま」に乗ることにした。しばらくは「トカラ列島 鹿児島日記」 になる。

鹿児島がなぜトカラ列島か、ということについては説明したことがある。繰り返さない。とにかくトカラ列島はどこまでも続く。

ただし、話が面倒になってもいけないので、ひとまず日本国の領海・領土内とする。根拠を述べればまたも屁理屈になる。

湯泊温泉にしばしの別れを告げに行った。湯加減は上々。

日が昇った。きょうも凪になりそう。 …写真左端の島影は諏訪之瀬島、次いで悪石島、小島の手前に停泊しているのは建築工事のための作業船。

梅雨入り

∇…057   鹿児島地方気象台は、奄美地方の梅雨入りを宣言した。 とすれば、南トカラ(吐火羅=小宝・宝) も梅雨入り。

なぜそうなるのかは権威も、科学的な知識もない爺ぃの勝手。 気象協会が「十島村」限定として発表している天気予報はあまり当たらない。出たらめというわけでもなく「名瀬地方」限定の方ならよく当たる。

「十島村に大雨洪水」という警報が流されても小宝の人は聞き流す。 そんなのはトカラ北部5島の人たちがせねばならぬ心配。ここでは、大雨が降ればもっけの幸い。だいたい氾濫すべき川がない。

今朝は目の覚めた時からしのつく雨。宿の前の小道を通学の子が傘をさして通る。なんとはなしに新鮮な光景に見えた。





昼前、小ぶりになったころを見計らって島の古老を訪ねた。 「この程度の雨では畑は潤わん、野菜も生き返らん」 というぼやきを背で聞き流しながら、早々に引き揚げた。

「午後からも、ずっと雨の予報ですよ」 と、口先だけでも慰めようかと思ったが、余計なお愛想を言わなくて良かった。 昼過ぎには雨がやみ、時折り日が射し込む天気になった。

催し2件

∇…016  昨晩、住民センターで皆既日食の客の受け入れ準備について説明会があった。村から“日食興行”の丸投げを受けた旅行代理店から4人、村役場からはひとりだけ。

日食の期間中、島の出入りは村と旅行代理店に統制される。住民から前もって希望をとった分の予約はまだ確定していないという。

皆既日食は7月22日の6分余。出入り規制は6分では済まず、およそ10日間。島の封鎖期間は事実上2週間に及ぶ。


∇…050  17日午前9時から小宝神社で「麦のまつり」 があった。麦は今つくっていないけれども、豊穣と家内安全を願う気持ちは変わらない。

島の人口はこの4月から増えた。いちおう32世帯59人。トカラ七島で、物理的に最小の地位は不動ながら、最少の“栄誉”は他島に譲った。

前年より世帯数で3、人数で8人増えた。躍進というべきだが、社会経済的な要因、あるいは自然要因があって増えたわけではない。ひとまず、いちおう59人。 この先、減っても増えても不思議はない。

小宝神社は別名があって、十柱(とばしら) 神社ともいう。 十の神さまが同居中。それなのに社殿は狭く、神さまも参列者もぎっしり。 ことしは、ついに外にはみ出した。

時差

おとといの書き込みで、日の出はいま時分がいちばん北寄り…と書いた。これは根拠のない思い込みで、間違いだった。

「暦のページ」を見て、日の出の位置は来月に向けて、まだまだ北に動くということを知った。いちばん北寄りは6月16日から27日までの間、方位62という数字が示されている。

今の時期を最北と思った理由はただのズボラ。昨年5月から日の出の写真を撮りだした。初めのうちは日付を付けていない写真があって、どうやら6月に撮影した写真まで5月のものと勘違いしたらしい。

ちなみにきょうの方位は67。 西を270、南を180、東を90として、東から北にずれるにつれて数字はゼロに近づくということらしい。いちばん北寄りから日が昇るときは62という数字になっている。

ことのついでに小宝島の位置データを入力して、日の出日の入りの「公式発表」を確認してみた。それによると、きょうの日の出は5時30分。東京と比べると56分も遅い。

日の入りをみると、小宝島は午後7時9分という。これは東京と比べ28分の遅れしかない。

実は、日の入りの時差は50分近くあるのでは…と思いこんでいた。この錯覚は、地下街やビルの谷間の低層空間での暮らしが中心だったせいだろうか?

東京は早く日が暮れるけれども、日の暮れる甲斐がない。日付をオーバーして、終電車の発車時間が1日の区切りになることもあった。


おめでたい人間の、おめでたい日

日が変わった。旧暦4月22日、宵月(月齢20.85) 。明日が下弦で、ちょうど半分になる。夜明けまもなくの観測点の気温は25度、湿度61㌫。南の風、はれ。

ニューヨーク・スタッテン島に住まうかつてのヤンチャ坊はきょうが誕生日。時差はあるのだが、生まれたときは米東部時間などだれも考えなかったんだから、きょうでいい。

ほんとうに月日の経つのは早い。 半端ガイジンにして原日本人の君へ とにかくおめでとう!

ほか元気な人、そうでない人、体の不如意に難渋しながらも日々回復を確認できる人、思うようにいかない人…、ほとんどの人には誕生日でない日。 それはそれで、理由もなく おめでとう!

起きぬけの決意…。 きょうの晩酌では良い酒を飲もう。

これも理由はない。 強いて申せば、思い立った日に良いことをしておかないと、あしたのことは分からない。

島の子の証明

∇…094

島の子どもたちはみんな一輪車に乗る。きょうは学校行事として一輪車大会があった。

成長の度合いに応じて決められたコースを、それぞれに目標タイムを決めて挑戦する。島の人たちも仕事の手を休めて声援をおくった。全員が目標を超え、自己記録を更新したという。

小宝島は麦わら帽子を伏せたような恰好をしている。中心部に隆起した竹ん山(102.7㍍) を珊瑚礁原がとりまく形。 島の生活区域はどこまでいっても平たん、上り坂も下り坂もない。

2㌔余の一周道路が幹線をなす。これから海にのびる支線がところどころにあるが、ほどなく海岸につきあたる。つき当たらない道は、やがて一周道路と並行する格好になって一周道路に戻る。

道はどこまでも周回し、十字路はない。湯泊温泉のところが三叉路が複合した複雑な形になっているだけで、基本はT字型の三叉路。信号も横断歩道もない。

昔、この地形の特異性に気づいた人がいた。島の道はすべて一輪車の特設コースだった。 校庭を周回するだけでなく、そのまま島のどこにでも行け、必ず戻ってこれる。

やがて、一輪車を乗りこなせることが小宝島の子の証明のようなものになった。 

今は島育ちの一輪車乗りも子の親になった。一輪車に乗って畑を耕したり漁をしたりするわけにもいかないが、島の地形と自然の特長を生かす知恵はなにかありそうな…。

写真は一輪車大会のあとの校庭。小学生7人、中学生4人の総員11人が愛用の一輪車と記念撮影。

∇…037 (2)

この写真は一輪車と全く関係がない。時も場所もちがう。15年前の9月のパレスティナ自治区ガザの通り。子どもたちが下校してきた。地からわいてくるような数の多さ。

子どもたちの数が少なくても多くても、世界中どこででも子どもは可愛がる。それが世界の標準。パレスチナ難民は食うに困る生活をしながら子どもをネコかわいがりする…などと言う人がいたら、言う方が間違っている。

アメリカでは先住民の土地の強奪と人種浄化をはかった時代があった。その当時の軍隊はインディアンの子への情愛を利用したという。

さらってきた子を砦の高いところにさらし、殺すそぶりをしてみせる。射程ぎりぎりのところまで近づいた父親が、大地を叩いて身もだえする姿を笑いながら彼らが屈するのを待つ。どんな無理難題でも通ったという。

彼らは子を思う情の深さをインディアンの泣き所という。 果たして、インディアンは変わっているんだろうか?

インディアンの情が異常に濃いのではない。人質をとる側が酷薄なだけであろう。想像力と理性の恐るべき欠如。それを当たり前だと思うと、平気で無差別の攻撃、大量虐殺ができるようになる。

ガザでは子どもの下校時間に爆撃がなされたと伝えられている。人びとがひしめき合い、肩を寄せ合って暮らす狭い区域。ここを爆破する「正義」というのは、いったいどんなものなんだろう。

一部訂正します! m( _ _ )m

∇…021 ∇…004

気温24度。湿度64㌫。きょうの月は宵月とか。24日の新月に向けて少しずつ欠けていく。

お日さまは昨年、定点撮影を始めたころの位置から出た。1年ひとめぐりしたらしい。おそらく今日あたりが最左翼。だんだん右寄りにずれていく。 


【追記】2段落目「おそらく今日あたりが最左翼」 というのは間違いでした。 「暦のページ」で小宝島の位置データなどを組み込んで計算をしなおしたら、日の出の位置は6月6日から15日までの間が最も北寄りとの結果がでました。 この件は17日付で書き直します。

日はまたまた昇る

∇…030  三脚をしても右傾はなおらない。 ……身はたとひ 吐火羅の海に朽ちぬとも とどめおかまし 大和魂(!?)

風は北。海は荒れてきた。

∇…023  天候好調。 小島の水路が湖のように穏やかになった。

∇…033  温泉絶好調。 湯量、温度、泉質とも良い。江戸っ子にひけをとらない熱湯好きでも真ん中の浴槽が適温。

手前の槽をさらにビニールシートで仕切った真ん中寄りを愛用してきたが、きょうは熱い。気温も高いので湯気は立たない。湯泊温泉の湯加減は入ってみないと分からない。

インターネット回線は絶不調。 昼前から切れ、夜になって回復したらしい。原因不明。

5月の憂鬱

14年前の5月、中国を旅していた。日本軍が爆撃した重慶市の中心街をはなれ西寄りの大足(ダーズー) というところを歩いていたら、身なりの良いお婆さんのふたり連れに出遭った。

ふたりとも杖をつき、足どりがたよりない。よく見ると足が異常に小さかった。清の時代に纏足(てんそく) という習俗があったのを思い出した。 大足で出遭った小足。

自分も小足で、小足のくせにあちこちで靴をはきつぶした。米国で買い替えようとしたら合う靴が一足もない。 靴屋をはしごした揚句、お子さま向けの店に行きなさい、と言われた。

大足が当たり前のアメリカで、ビッグ・フットという通り名の人がいた。ミネコンジュー ・スー部族のシハ・タンカ酋長。 

この人が雪の中で膝を折ったまま絶命している写真は本などで何度も見た。 自分にとって、アメリカの原風景の一つ。

1890年12月、サウスダコタ州で露営中の部族を第七騎兵隊が奇襲し、150人余を皆殺しにした。いわゆるウンデッド・ニーの虐殺。

無抵抗のまま多くの子ども、女、傷病者が殺された。 オグララ・スーの戦士、シッティング・ブルの配下をかくまっていると疑われたためとも言われるが、真相は不明。

分からないことを分からないままにして、無差別の人殺しは今も続く。イラク・ボディ・カウント(死亡者集計) というサイトを久しぶりに覗いたら、91,912~100,339という数字になっていた。

高めの見積もりの方をとれば民間人犠牲者はついに10万人。この数字は新聞、テレビ・ラジオなどの報道を集計した。墓掘り人からの聞き取りなどを積み重ねた命がけの実地調査では、この倍では済まないらしい。

よそのことで、面白くない話ばかりすると言われても困るので、話を身近なところに移して、やっぱりうっとうしい話をし直す。

おおざっぱな言い方ながら、東京で10万、広島で20万、長崎で7万、鹿児島市で3千…。 いずれも低めの数字だが、B29による空襲の死者である。

これを指揮したのは米空軍のカーティス・ルメイ少将(戦後、大将に昇進) だった。米国では「原爆投下で日本を救った人」という評価があるという。

日本では航空自衛隊建設の功労者!? これは出任せではない。1964(昭和39) 年の12月、真珠湾奇襲の日に、ルメイは航空自衛隊の入間基地(埼玉県) に招かれ、勲章を受けた。嘘のようなホントの話。

授与したのは小泉純也防衛庁長官。勲一等旭日大綬章。ほんらいは天皇が親授する最高の栄誉である。 当時の首相はのちの“ノーベル平和賞受賞者”佐藤栄作だった。

ついでながら、問題の防衛庁長官の息子が小泉純一郎元首相。父親の故郷・加世田に“里帰り”したことがある。その際、万世の特攻隊基地跡を訪ね、そこで感極まって涙を流したという。

小泉首相は、ブッシュがイラク爆撃を口走ったとき、真っ先に歓迎・支持を表明した。自国の利害にも人の道にも頓着しない親子2代にわたる忠義だて。こんな手合いを昔は売国奴と呼んだ。

それにしても、特攻基地をとびたって死地におもむいた若者たちの心と響き合うところが、どこにあったんだろう? 同年、同郷(!?) というこの人物、何度思いだしても不可解、不愉快である。

うっとうしい話を重ねた。14年前の5月、私が中国を歩いている間に亡くなった人とは、この手の話を始めたばかりだった。気安くするまで相応の時間をかけ、これから本当の付き合いが始まると思っていた。

青い月

∇…049 

夜更かししたのに起きるのはやはり早かった。歳はとりたくないものだが、とってしまったものは仕方がない。目が覚めたら起きるしかない。

ベランダの方を見たら、少しおしめりがあったらしい。午前3時半ごろには空がすっかり抜け、無風。 月も星も見える。

十五夜は過ぎたのに月はまん丸。なぜか、はばかる気配もなく丸い。人が見ていても見てなくても律儀に丸い。

電子情報網で調べてみると、月の満ち欠けと月齢は連動はしても、完全に一致するわけでもないという。満月の月齢には幅があって13.8から15.8まで。

11日の月齢は15.62というから満月のうち。十六夜(いざよい) を過ぎて、なお月を丸く見て、それで間違いということではなかった。 

丸いものは、やはり丸い。丸いものを丸く見て何が悪い…。人に誹られたわけでもないのに、妙に突っ張ってもう一度月を見上げ、蚊に食われた二の腕を掻きながら部屋に戻った。
 
月の写真はなぜか青く写っていた。15年前に中東に初めて降り立ったとき、ベイルートの空港で見た月と同じ。

脈絡はないが、次に思いだすのはガザの子どもたちの顔。ぬかるみだらけの広場で、好奇心に眼を輝かせ、次々に握手を求めてきた。日本への素朴な好意を捨てきれない人びとが、まだいた。

この子らが親きょうだいと身を寄せ合っている狭い区域に、何度も何度も爆弾が落とされた。ここだけではない。イラクでも砲弾、爆弾が降りそそいだ。

どこに身をおいても、どんな月を見ていても、このことを思ってしまう。バカの一つ覚えのような、死にそこない爺ぃのこだわり。

テレビはきょうも新型インフレエンザのニュースを繰り返すだろう。少々の変化があってもなくても同じような没論理の絵と声の繰り返し、蒸し返し。狼少年のお遊びの方がまだタチがいいのかもしれない。






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