じじらぎ

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憲法

憲法記念日、66回目になる。 人なら不惑も、則(の) をこえない年も、通り過ぎた結構な老人。 しかし、ただの老いぼれ扱いは不当である。


日本国憲法はどの国の憲法も追随できない働きをしてきた。 おかげで、わが国は自国民、および外国の民を66年の長期にわたって戦争で一人も殺さなかった、人類史上に類例のない国家になった。


自民党などがつぶしにかかっている第9条は簡潔で分かりやすい。 戦争は一切しない…という。 古い時代からご先祖が守ってきた殺生戒(せっしょうかい) を国の法の基本として掲げた。 それを形だけでも守ろうとしてきたのが戦後日本だった。

あまりに律儀でバカ正直な国家。 しかし、こんな国の形を現代世界の国家の標準形、当たり前の在り方としなければ人類は自ら生み出した科学技術文明のために必ず滅ぶ。 

みんなが知っていること,分かりきったこと。


日本列島一帯からはるか南にのびる琉球弧に暮らす人々は古来、殺すな…という心がけを第一の戒めとしてきた。

モーゼの十戒では、たしか5番目のはずである。 「殺すなかれ」 という戒律の前に「汝の父母を敬え」 という戒めがある。 

ちょっと短絡的かもしれないけれども、古代から続く紛争もこれが原因と思うことがある。 もし、戒律の順位に意味があるのだとすれば、モーゼの十戒を順守してきたユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信徒たちが神の名のもとに殺し合いをするのもこの辺のところに遠因があるのかもしれない。 

一歩間違うと、産土の神や父母を侮辱するものは生かしておかない…という理屈!? 

 

イエス・キリストは、殺し合いと恨みの連鎖を断ち切ろうと呼びかけたはずだが、世界史をふりかえると最もえげつない殺しに手を染めたのはキリスト教徒だった。 この真似をしてはいけない。 

モーゼを師とする「選民」たちが、八百万の神々を受け入れる東アジアの「賎民」のいい加減さに学ばない限り、殺し合いは終わらない。
  




抹香臭い話を長々としてしまった。 言いたいのは、憲法のこと。 

戦争放棄は、戦勝国の都合願望と符合する部分がたしかにあったが、ただの押し付けではない。 もっと根は深い。




最高規範としての非戦は、第一次大戦の惨過を経て欧米も必死に考えながら、具体化できなかった宿願だった。 何百年何千年にもわたって繰り返してきた殺し合いの歴史を経て20世紀の人類がたどりついた知恵。 これを条文化して実行を試みた。 


(……戦争をしない国の防衛については一度述べたことがある。 それなりの工夫が必要になるが、もっと問題を整理して後の機会に語りたい。)
 


とにかく、「殺せ」 という教唆、脅迫に対してならば「押し付け」 という言い方をしても不自然ではない。 しかし、「殺すな」 という最高の倫理を「押し付け」 とする言い草はなじめない。 国の在り方を語るのに、こんな言葉づかいをしてはいけない。



一度も改正されたことがない…という言い草も、どこか変だ。 理想が現実になった、所期の目的が達成されたというなら変えてもいい。 しかし、現実の矛盾や不具合、不正が改められないままなのに理想をとりさげるのは無茶苦茶ではないか。

長いこと時間がたったからというのは理由にならない。



ちなみに現代のめぼしい国で一番古いのは意外にも米国の憲法である。 たしか1779年の制定。 

国は新しいのに憲法は古い。 修正条項を付け加えるという手法をとっているせいだが、もともとの7カ条が古くなったから変えよう…といった議論が出たという話は聞かない。  

日本の政治家も一部のマスコミも、古いのがいけないと子供じみたことを大真面目で言う。 聞くに値しないことだが、それを素直に聞く人が多いのにがっかりする。



自民党が削りたがっている97条、基本的人権の由来を述べた部分について全国各紙の論調をみてみた。


朝毎読、産経、日経の社説は読む前からおおよその見当がついていて面白みがないので、ネットを渉猟して地方紙をのぞいてみた。

目についた地方紙はどこも、せっかちな改憲に疑問をなげかけている。 なかで、97条を米国の押し付けとする改憲論者の大ウソに切り込んでいる社説がいくつか目についた。

四国の高知新聞は明治憲法の制定会議のさいの伊藤博文の発言をとりあげている。 「憲法制定の精神は第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保護するにある。臣民の権利を列記せず責任のみを記載するのであれば、憲法を設ける必要はない」…。

震災被災地の福島民報は120年前の創刊の辞を紹介している。 発刊の趣旨は「人民の福利を企図するに在り」 とし「現在享受している自由や権利は先人が苦難の末に手にしたことを忘れてはなるまい」 という。


鹿児島市に本社を置く南日本新聞は、天賦人権説は「人類普遍の原則だ」 としている。 しかり、全くその通りなのだが、同じことを言いながら129年前の鹿児島新聞(南日本新聞の全身)の論調はもっと切迫し、血を吐くような悲壮感を帯びていた。

「自由ノ権理ハ余輩人民ノ天稟ナリ」 と喝破する。 明治10年代、権利という翻訳語の表記はまちまちで「権理」 としているが、この方がぴったりしているかもしれない。 つまり、自由はわれら人民のうまれつき天からさずかった権利で侵すことができないということ。

「自由の権理」 と「立憲政体」…。「此二者ハ死ノ盟テ之ヲ主張セン」 とも言う。 87条は戦争に負けてアメリカに押し付けられたものではなく、明治初めのころから国づくりの理想にもえた先人たちが命がけで主張してきたことだった。


86条の改正要件の規定をいじることについては福岡に本社を置く西日本新聞が分かりやすい比喩をしている。 試合に勝つのにいろいろと策を弄するのはいいが、そのためにルールを変えるというのは許されない…という。

多くの新聞が憲法を他の法律と同じように過半数の同意で変えるのは立憲主義そのものの否定であると指摘している。 

そんななかで、臆面もなく政府与党のごますりと馴れ合いに余念がないのは、公共放送と一部の大手紙。 奴隷根性と愛国とを分別をしない威勢のいい言辞で、情報飢餓状態に気づかない国民を煽る。

世界に冠たる平和憲法も、このままでは風前のともし火の様相。




  








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