じじらぎ

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こだわりのこだわりへのこだわり

∇…jin and sun

「軍産複合体」の表記については過去2件の記事を訂正しておきました。いったん公開したものを後になってからこっそり手直しできるのが、ブログの便利、かつ気が咎めるところでしょうね。私のような、いつまでも煮え切らない性分のものにとっては、なかなか使い勝手がよろしい。

「こだわりへのこだわり」については、ほかのところも言い回しに手直しを加えました。アイゼンハワーは私の記憶の中で増幅されたものよりもの、もっと穏やかな語り方をしている。やはり元帥閣下。それなりの遠慮があったらしい。

ついでに補足……。

食事に祈りがともなう…ということについては「いただきます」という食前の挨拶を思い出す。これは日本人に特異な心もちかもしれない。朝鮮語に、似たような言い回しがあると聞いたことはあるが、ズボラで未確認のまま。

キリスト教徒の家庭では食前の祈りをする。一度、夕食をごちそうになったことがあるが、食前の長い祈りには閉口した。自分ひとりだけ除けものになった感じ。礼を失してもいけないので、最後の「アーメン」のところだけ唱和するふりをする。そのあとで門徒でもないのに「アーメン」と発するのは僭越ではないか…と、また悩んだ。

「いただきます」と同じように「アーメン」の一言だけで済ませられないかとも思ったが、2音節では短すぎて物足りない。「アッラー アクバル」なら頃合いの長さかな? でも、信心が希薄、かつ淡白な日本人の感覚では、どっちにしても落ち着かない。 

カトリックのお坊さんのなかには本当に立派な人がいる。イスラム教徒とは来日のたびお会いする縁に恵まれた人がいる。この人も人格者である。そんな人たちには申し訳ないのだけれども「アーメン」も「アッラー アクバル」も、新興宗教くさい響きがある。

もっとはっきり言えばうさんくさい。唱和しないものを排除する仲間内だけの合い言葉のように聞こえてくる。そこにもっていくと、「いただきます」は中立的で、妙な臭みがない。いい加減で意味が分からない。そこが良い。

最近びっくりしたのは、「いただきますは、生きとし生けるものの命をいただくという敬虔な心から生まれた挨拶です」という者がいたこと。ペラリとした顔で、断りもなしに人の家のテレビ画面にしゃしゃり出たあげくに、どうだ知らなかったろう…とでも言いたげ。

冗談いっちゃいけない。これまで、何千回、何万回も飯を食ってきたけれども、一度だって殺してすんません…などと思ったことはない。食事を粗末にすると罰があたる…とは言われたけれど飯を食ったために罰を受けた覚えは一度もない。

あらゆる生き物は生きていく限り、ほかの命を犠牲にする宿命があることは子どもだって知っている。三度々々「私は因果な殺し屋でございます。きょうもお米さまの命を絶ちました」と懺悔することにどんな意味がある? 殺すのが後ろめたければ食わなければいい。

命をいただくのであれば、食い終わったあとで「ごちそうさま」はつじつまが合いすぎて凄まじい。免罪符ということにしても、あまりにもタチの悪いご挨拶である。

いただく…は謙譲語であって、もったいぶって意味をつけるとウソになる。由来は漢字表記の「頂く」「戴く」がそれとなく物語っている。抹香くさい説教をたれて、これ以上、新興宗教をつくるのはやめてほしい。祈りも正義も過剰になると平気で人を殺すようになる。

【ジンベエは猫族で、聴覚障害のせいか寡黙である。食前も食後もニャンとも言わない】
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