じじらぎ

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踊り

日本舞踊のお師匠さんが朝の上り便で帰った。島びとの有志に招かれ、住民センターでお稽古の会をひらいていた。

師匠はこの3月まで栄養士として七島をくまなく訪れていた人。通いなれたつもりの島に違う立場で来てみて、いろいろと思うことがあった気配。
南アジアにむかって弧をえがく日本列島の島嶼域には生物相と言語区分の見えない線がはしっている。生物分布は、いわゆる渡瀬線。悪石島と小宝島の間をとおる。

小宝から南には鹿、猪、狐狸の類はいない。マムシもいない。代わりにハブがいる。羽があるから本土にも飛んでいくが、色とりどりの蝶や鳥も見る。杉は生えておらず、アダンやビロウが茂る。…そういった違いがある。


素人のくせに知ったかぶりをした。言語、文化については若いころから関心があったので、懲りずに偉そうな話を繰り返す。中身はやっぱり学者、研究者の言っていることの受け売りである。

日本語の話し言葉は大きく2つに区分される。本土方言と琉球方言。 

本土方言という場合は、鹿児島県の薩摩、大隅から九州方言一般はもちろん、関西、東北、北海道の方言までを一つにくるめる。

琉球方言には奄美地方の方言も含まれる。区分線は宝島と奄美本島の海。つまり宝・小宝が本土方言の南限。動植物の分布は小宝が奄美・琉球・台湾など広く分布する亜熱帯・熱帯相の北限になる。

言語も生物相も分かれてしまった顛末はそれぞれに解明されている。分かりやすい面白い話だと思うけれども、おおかたの人にとっては退屈かもしれないので、いずれ。


文化一般、生活様式は本土圏か琉球圏か、どちらに組み入れるかはあいまいになっている。はっきりした区切りがない境目地帯とされ、ふたつの文化が複雑に重なり合っているという。


音曲、歌謡については爺の生まれ在所の薩摩半島西海岸にも奄美琉球と同じ趣のものがあった。さのさ、はんや節にみられる、ジャズのダウンビートに似た変則2拍子は奄美の六調と同じ。なつかしい潮の香りがある。


しかし、島で暮らしてみると学者や好事家の高説も現実感をもって受け止められないところがある。人の数の少ないところでは文化、伝統は集積されないのではないか? 念のため、文化果つるところ…という意味ではない。 


村は文化伝統を重んじるといい、村民憲章でも尊重をうながす。しかし、島の伝統をどう見ているのか、どのような文化政策をとろうとしているのか、ということになるとさっぱり分からない。


話がむずかしくなった。袋小路に迷い込んだときは、理屈道理はかなぐりすてて独断で無責任なことを言うに限る。
 
結論! …地域文化の特性、区分すべき特徴はそのときどきの住民の個性、好みや体験によって偶発的に左右される。

要するに文化伝統などともったいぶることはないのだ。人が自由意思でなにごとかを始めるのに、学説の後ろ盾や官のお墨付きはいらない。意味や意義の詮索は無用、そんなことを始めたら難しくなるだけでなく、一歩踏み違うと抑圧につながる。


飯の炊き方、箸のおき方も文化だという。腹のたしにならない無駄な遊びをするのも文化行動という。

とくに後者の場合、勝手に自由にやるのが基本。女将が腹のふくれないお遊びをして飯炊きがおくれ、ひもじい思いをしたこともあった。

しかし、腹をたててはいけない。他人が好きでやることに、自分の好みに合わないからといって腹ふくるる思いをする…、そんな心根は卑しいのではあるまいか、と自戒した。



新しい島の文化創造の現場に踏み込んで、見物してみた。

なるほど、小宝島は舞踊にかんするかぎり、やはり混合ごたまぜ区域であった。本土からきて日本舞踊しか知らない人、琉球舞踊を習ったことのある人が交じって手習いしている。

チントンシャンの音楽に合わせて、琉球式にも見えるすり足。住民センターの畳のすり切れに目をそむけて、音だけに注意を向けてみると、それなりの島の時間が静かに流れているような趣があった。
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