じじらぎ

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直接民主主義!?

9日の晩に“女子部会” 10日は自治会総会があった。婦人部会と改称された女子部会は、女子でも婦人でもない立場をわきまえて傍聴を遠慮した。昔は部落総会と呼ばれていた自治会の方は“島民見習い” の身分で末席を汚させてもらった。
狭いところで人が顔をつき合わせ、障りや軋轢を調整していく知恵については若いころから関心があった。それが、周囲4㌔の珊瑚礁の島で暮らしてみようか…と思いたった動機の一つでもあった。

そんな妙なことを思いついたのは、学生時代に東京の下町の暮らしぶりに触れたのがきっかけだったのかもしれない。郷里の薩摩半島西海岸の浦浜との違いが目について、いろいろと面白かった。


ころは昭和三十年代の半ば。生き馬の目を抜くところ…という先入観はラッシュアワーの国電でさっそく確認した。

他人を気づかう者はいない。人を押しのけて座席を奪いあい、やがて前後左右からの圧力で軽い身体が浮き上がり、着地に失敗して他人の足を踏もうものなら凄まじい剣幕で怒鳴られることもあった。


やがて、昔ながらの江戸っ子、東京人はそうでなかったことを教えられた。これが2度目のカルチャーショック。かごしま言葉風に言えば「二度ビックイ」。


教えてくれたのは江戸っ子の残党の末裔たちである。当時、祖父母の代以前から東京で暮らしている本物の東京人は多く見て2割と言われていた。国の経済が凄まじい勢いで成長していくなかでよそ者が殺到し、大昔から住んでいたような顔をして東京ことばでわめき合っていた。

級友たちもごく少数はえぬきの東京人がいて、あとほとんどは2代さかのぼれば田舎者のよそ者。

そのころの私は“さつま”と呼ばれていた。田舎じみたところがなかなか抜けない。

靴は1足だけしかなく、雨の日も雪の日もそれで通し、4年かけてはきつぶした。服装の野暮ったさ貧弱さは江戸川柳で散々からかわれた おのぼりさんの「浅葱(あさぎ)」 そのものだったのかもしれない。

体格も貧弱だった。それでいて、一銭の得にもならないところで猛然と怒り、無暗に突っかかっていくところがあった。

田舎ではむしろ弱虫の“ビビイゴロ” だったのが、東京に出ると妙に突っ張らかっていることで際立った。それが滑稽にみえたもののようである。ただ、侮蔑というだけでもなく「男らしい」 と言われてびっくりしたこともある。

“さつま” に心を開いてくれたのは新東京人よりも、むしろ江戸っ子の末裔たちだった。彼らは江戸町民文化の破壊者として悪名高かったした薩摩のイモの末裔に心を開いた。“五月(さつき) の鯉の吹き流し” で口先だけめっぽう威勢がいい…と言われた江戸っ子が武辺武骨、野暮の口べたの薩摩っぽに気を許した。

同類の臭いを感じたのでのである。

江戸下町の文化について勉強したことはない。その代わり落語はラジオで毎日くりかえして聞き、畳敷きだったころの寄席に寝そべりにも行った。

それで知った八つぁん、熊さんの世界は故郷の浦浜と同じものだった。狭い区域のなかに他人同士ひしめき合っている。

それで軋轢が生じない。さりげなく気づかいをし合う。他人を粗末にしない言葉づかいやしぐさをみんな身につけた不思議とやさしい空間…。

ガラッパチの東京方言をつかう下町のおじさん、おばさんたちの言動は、見かけ上の粗暴さ屈託のなさのうちに高度の知性、品性、理性をくるみ込んでいた。彼らの心のおき方、しぐさ、言葉遣いは世界中どこにもっていっても通用する立派な紳士淑女のものだった。


前にも書いたことがあるかもしれないが、昭和30年代には「冷えもんでございます」 という挨拶がまだ使われていた。銭湯の湯ぶねにはいっている人に、あとから来た人がそんな言葉をかける。

よそ者の若造が一人はいっているとき、倶梨伽羅もんもんの立派な彫り物を全身にほどこしたお爺さんがはいるときも「冷えもんで…」 と仁義を切る。いつかこんな挨拶がスラリと言えるような貫禄になりたい…と密かに思っているうちに、本場の東京でもこんな古めかしい挨拶は消えてなくなった。



さて、故郷・串木野の生え抜きの人の優しさについてはいつか書くと言っておきながら、まだ果たさない。ここでは必ず何時か書くという確認だけしておくとして、狭い区域に人がひしめき合って暮らす知恵についての話に戻す。


21年前に屋久島の昔「下屋久」 と呼んでいた区域のなかでもとりわけ日当たりの良い南側・麦生(むぎう) の公民館に通りかかったことがある。ここの住民の合意形成の仕方は巧みだった。

野菜の共同生産組合の人たちがバザーの準備を詰めているところだったが、会の進め方が手際が良く、無駄がない。それでいて少数意見を引き出して参加者全員の記憶にとどめておく気づかいも忘れない。


これを見ていて鹿児島県立図書館長をされていた新納教義(にいろ・のりよし) さんがおっしゃっていたことを思い出した。

昔の鹿児島人が「ギ(異議) を言うな! といったのは言論を封殺したということではない」 というのである。 前段に徹底した話し合いがあった。その場面では上下はなく、率直に議論をぶつけあう。そのあと、ことが決したら、議論の過程では反対した結論でも命を賭してそれにしたがう…。

これも故人だが、民俗学者の小野重朗(おの・じゅうろう) さんによると、地域で話し合いをするとき年寄りは部屋の隅に置き物のように控えて口をはさまない。議論が行き詰まって議長役の者がうかがいをたてにいったときだけ、「それはこういうことだ」「昔はこうしたものだ」…などと助言したという。昔の年寄りは年甲斐があった。


さて、小宝島でもたれた2つの会合はどうであったか? 島民見習いとして傍聴した自治会総会については、思ったより手際よく進められたことだけを報告しておく。


敢えて申せば、時代の趨勢として自己顕示欲が旺盛になった。これが必ずしも悪いわけではないが、決まったことは命を賭して守るという気構えに不足がある現実を組み込んだ調整が必要であろう。



島は直接民主主義のまたとない実験場である。いろいろ学ぶところがあった。 発言し過ぎる者と発言をしない者との落差が気にかかったが、爺ぃが発言を控えた分だけ良い会合であったということは言えそう。


もう一つ痛感したのは情報の公開の大事さである。自治体としての十島村の不備不足を一つに限って挙げるとすれば、この問題に尽きる。これこそ諸悪の根源…。情報の敏速で過不足のない開示なしには自治も民主主義も成り立たない。

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COMMENT
タトゥー!?
今どきはタトゥーと言うんですね。世の中は進んだのに彫り物の質が落ちて入れ墨が氾濫する。その前に絵ならカンバスに相当する人間の質がお粗末になりました。

昔の東京では午後2時に銭湯が店開きし、近在のご隠居さんがやってきた。普段でも熱い湯なのに一番風呂は肌をさすほどの熱さ。御隠居さんたちと張り合って平気な顔をしてはいるものでした。

江戸期の薩摩で「冷えもん」 と言えば、また別のものを指しました。人の生肝のことで、生死が同一線上にあった凄まじい世界でした。
冷えもんでございます・・・う~ん、時代劇でも聞いたことのない言葉ですが、かっこいいです。
私、時代劇好きだったおじいちゃんの影響で、幼稚園の頃から時代劇とかやくざ映画が好きで(笑)
彫り物、マジで憧れましたが、まわりから激しく却下されました(あたりまえだw)

昔サーフィンをやっていたのですが、いつも隅っこの方に背中一面に彫り物のあるサーファーが1人。あれには驚きましたが、チンピラ系の多いサーファーの中でも、彫り物は気がひけたのかしら・・・今じゃ、プールも温泉もだめですよね。
・・・すいません、話が「冷えもん」に偏ってしまいました(汗)
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