じじらぎ

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ウソ(嘘) とツラ(顔)

前々回の書き込みが舌足らずであった。いつものことではないか…と言われそうだが、気まぐれな補足を加えたい。
人をツラ(顔) で判断するのは無茶である。しかし、間違いではない。最近ではツラのもたらす情報をそのままに素直を受け止めたために裏切られることがなくなった。

店構えが下品な飲み屋は酒も肴もまずい。これは万有引力と同じ、普遍的な法則である。

念のため、下品なのが悪いと言っているのではない。まずいものにも存在理由がある。うまいものを食うほどの働きもない、味覚さえもない者がうまいものを食うこともない。



……馬齢を重ね、しくじりと失意失望を飽きもせずくり返したあげくに、人間が存分にひねくれてきた。おかげで、人をツラで判断して狂いが生じることはなくなった。

見た通りのまずい食い物もありがたくいただく。ときには敬虔さも必要である。


ただし、好んで毒を食らうのはただの変人。毒は敬して遠ざけたい。


たとえを生身の人間に戻すと、時代小説では毒を遠ざけるだけでなく、スッパリ絶つこともある。

知る人ぞ知る文豪・隆慶一郎(すでに故人で、知己を得たこともないのでおそれながら呼び捨てにする) が描く主人公は悩む。--(「隆慶一郎全集」の第四巻568㌻、新潮社、1996年「駆込寺蔭始末」)

悪事凶行の根は絶たれた。欲が絡み合った醜い事件だが、被害者にもどこか好意をもてないところがある。果たして自分の手で天誅を下すべきかどうか?

<余計な御世話だな> と思う。 が、やっぱり、すっきりしないものが残る。そこで希代の天才剣士はさいころを投げるような手法をとった。


<顔だな。顔にしよう>…。 

これまで悪代官やその手下の顔を直接見る機会はなかった。どんなツラかを見て、もし「気に入らなかったら殺そう。」

彼らが往来を行くのを待った。首実検に先立つツラ検分。


まず1人目。「人を、いや人の世をなめ切ったうすら笑いが、口もとに貼りついた顔。甘やかされて思いあがった犬の顔だ。殺。」


次の男も「頬の肉が垂れ下がり死んだ魚の眼をしている。荒淫と酷薄の顔だ。殺。」


しんがりの馬で現れた代官は「鰓の張った、見るからに強欲そうな顔。きょときょとと落ち着かなく動き廻る狡猾な眼。卑しい顔だ。殺。」


これ以上の引用は著作権の侵害に問われる。ともかく、白刃をかいくぐってきた剣の達人は、若いながらも人をみる眼力があるのが前提になっている。


さて、年をくってようやくツラ検分の手だれになったと自負する爺ぃの目で、国会議事堂に立ちまわる面々の顔をながめると、たいていが“殺”。 情けない世の中になった。



それにしても、昔の剣豪は偉かった。どうしようもない欲が幾重にも絡み合った凄まじい事件を見事に解決し、禍根を絶ったあと、刑の確定、執行までやってのける。

今どきは、相応の給与と待遇をうけているはずの裁判官が、ずぶの素人に死刑の判断を丸投げする。

死刑の執行は、判決と分業体制。宣告されても長いこと執行されなかった。


その方がいいと思っていたが、蛮勇をふるった人がいた。

白衣の天使の頂点に立つ看護協会のボスが参議院議員になり、なぜか法務大臣になった。そこまでは良いとして、めくら判をポンポンおす。


ナイチンゲールの後継者たちは命を救うことに知力精力真心のすべてをそそぐ。その親方はだれかの入れ知恵を真に受けて人を殺しまくる…。 裁判官は自らの手を汚さず、素人に人を殺させる…。それが今のニッポン。


実は、ナイチンゲールの女親分は鹿児島県出身だった。柳田前法務大臣については、広島の人たちもいい加減な人物を国会に送り出して、さぞかし恥ずかしい思いをしているだろうと同情した。

それが人ごとではなかった。

法務大臣は、かつての勤め先、選挙区が広島だっただけで、なんと「敬天愛人」 を座右の銘とする鹿児島県人だった。


となれば、アナクロ爺ぃとあざけられるのを恐れている場合ではない。薩摩の古い三戒を蒸し返したのにはそんな事情があった。


ついでに蛇足の注釈を加えたい。「弱い者をいじめるな」 というのはただの戒めではない。人としての品位、立つべきところをさし示す教えを含んでいる。

言いかえれば、ひとり前の男は、貧しい者、恵まれない者、しいたげられた者の側に立たなければならない…という、指導者、貴顕(エリート) の基礎教育であった。

偉そうなことを言ったが、私自身は落ちこぼれである。ついつい安全圏に逃げ込もうとするビビイゴロ(臆病者) の平均的日本人。


幕末維新期の志士たち、戦争で亡くなった人たちには本物がいた。今はやりの坂本龍馬に匹敵する人物が、道端の馬の糞ほどではないにしても、ごろごろいた。

龍馬だけが偉かったのではない。そこを見落とすと本物の悪党の姿も見えなくなる。


ときどき、歴史上の人物をこき下ろすのは本意ではない。虎の威を借る狐のような見苦しい亜流、自分は安全圏にいながら人には命を張ることを強制するインチキ愛国者と同類になるのを恐れるあまりの擬態偽装。

修羅場で泥をかぶり、血しぶきを浴び、おめおめ生き残ったことを恥じる気概のない者が、形だけ先人の真似をする。そんな輩の吹く笛に踊らされ、悪党と同じ歌を歌ったりするよりも、先人の事跡をつき放して見つめ直す方がましだと考えている。



もう一つ蛇足。「鰓の張った、見るからに強欲そうな顔」 という言い方について、著者に無断で補足を加えたい。

鰓=強欲=悪=殺…という法則はない。著者には、本人の努力ではどうにもならない先天的形質で人を差別する気持ちはない。だいたい、差別感情があればこの人の作品そのものが成立しない。

人間はむかし水生であった? 早くに陸にあがったグループといつまでも水につかっていたグループがあった。水生が長かった種族には鰓呼吸の痕跡が顔に残った。

顎の鰓は強い意志を連想させる形質だが、単なる形質人類学的な特徴であろう。イングリッド・バーグマンやソファイア・ローレン、オードリー・ヘプバーンが大変な欲深であったという話はきかない。鰓はコーカサス、モンゴルという分類を越えた鰓族に共通した形質に過ぎないのだ。

小宝島のパパラギの女将も、いつまでも水につかっていた組。怒ると迫力がある鰓族である。


やおら、ここで哲学する。 鰓=強欲という法則は必ずしも成立しない。さりながら、鰓=美人という法則は1個の例外もなく絶対的に普遍的に成立する。 そう! これが、第一の哲理。

哲理の第二。真理は哲学する者の境遇、および周辺の人物の機嫌によって流動的に変化する。
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