じじらぎ

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首折れ

今日は年に一度の句会である。Iターンで住みついた人に粋人がいて、分校の子どもたちと一緒に句をよむ。

興味はあるけれども一度も行ったことがない。行けば覗くだけでは済まない。末席を汚した以上は、短歌ならば腰折れ、俳句だから“首折れ”? の1句を披露しないで帰るわけにいかない。
実は、さいきん俳句づいたのは、この句会を意識したものだった。それで、自分なりに“首折れ” に挑戦してみて、やっぱりことしも遠慮することにした。

サバの首折れは美味いけれども、俳句の“首折れ” は臭みが強くて食えない。

あと1年くらい、ひとりで修業してみないことには人前にさらすわけにいかないと考えた。



修業というのは、俳句づくりの勉強をするということではない。

年齢に相応の人並みの徳を身につける、つまり人間を磨く。そうしないことには、このままではわずか5・7・5の字数から沁みだしてくる下品さはいかんともしがたい。


中国文学者の桑原武夫氏が唱えた第二芸術論には、南島を訪ねるようになってから疑問を抱くようになった。俳句・短歌、踊り、さらには日常の挙措も、文学、美術、音楽などの本流の芸術に比べて劣るものとは思えなくなった。

「おもろさうし」 を文学として二流と断じるわけにいかない。むしろ、独自の詩と歌をもたない民は、民族そのものの存続もおぼつかないと考えるようになった。

生意気盛りの若いころは文学、文芸の類は軟弱な女子(おなご=おんな子ども) の慰み物と信じて遠ざけていたが、今は立派に回心、悔い改めている。


…その立場からすると文芸にほど遠い“首折れ” は困るのである。とくに、分校の子どもたちの前で披露するとなると、教育上の問題も考えないといけない。


しばらくは、善良純真な女子の目にふれないところで文芸に近づける試みに挑戦していくことにした。

やってみると、心ならずも狂句になってしまう。ただの狂句ではなく、方言がまじる。季語がない代わりにタチの悪い毒がはいってくる。

教育上良くないだけでなく、健康を害する…。


ちなみに近作で、毒の少なさそうなものを挙げてみる。

野分きて 磯辺に揺れる 仏桑華……(のわききて いそべにゆれる ぶっそうげ) 台風5号はまだ遠くにあるが、次第に風がうなり始めた。きょう深夜発の「フェリーとしま」 は欠航という。仏桑華というのはハイビスカス のこと。

白浴衣 呆け歩きに 毒蛇も退く……(しろゆかた うつけあるきに はぶものく) 夕方の散歩は浴衣のまま 死にかけた老犬とヨタヨタ歩く。ハブ取り名人で知られたサン婆は目、耳がおかしくなり、嗅覚まで衰えたらしい。驚いたハブが足元から藪に逃げ込むのにも気づかないことがあった。

行き暮れて トカラの爺の 独り酌……(ゆきくれて とからのじじの ひとりじゃく) 暗くなるのを待ちかねて黒ぢょかで焼酎をわかして飲む。医者からは、離島暮らしも焼酎もほどほどにしなさい…と言われているが、先日、住民票を島に移した。

以上、共通しているのは季語がはっきりしない。敢えて言えば真冬ではない春夏秋。ここの季節は真冬か、そうでない時季の二つだけ。

かくて二季をよむトカラ狂句。真冬のトカラを句にすれば一段と荒涼としてきそう。福島原発もよんでみたが、発表は控える。

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COMMENT
m( _ _ )m!
大隅の人へ おっしゃる通り、ブーゲンビリアはハイビスカスの勘違いでした。ご指摘有り難うございます。ひとまず赤文字でお詫びと訂正をして、しばらくして書き改めます。

ハイビスカスは島ではもっともありふれた花の一つになりましたが、ブーゲンビリアはなぜか小宝島では根づかない。今、宿の庭に去年植えた苗が7株が生きています。花はまだ咲きません。
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