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人殺しルメイ

衛星放送にチャンネルを変えてみたら、ワグナーのワルキューレを伴奏にしてヘリコプターが機銃を乱射する画面になった。 

前にも見たコッポラ監督の「地獄の黙示録」。 67年前、1945年6月17日の深夜、鹿児島市で繰り広げられた地獄絵図を思い出す。


……肥大化した経済はさまざまのものを生産するが、そのなかでコストは高いのに、廃棄と消費が同時に行われる妙な生産財がある。 銃弾、爆弾、ミサイルのたぐいの戦略物資である。

産軍複合体が開発し、大量生産した産物は国家的な使命を帯びて最優先の扱いで流通・輸送される。 消費地までの足場がいいところにひとまず物資を集積するところが、いわゆる「基地」。

太平洋戦争の後半期からアメリカ合衆国という国家は軍事的な優位を決定的にし、「物資」 の配送を効率化した。

消費地への配送は余剰生産物の投棄を兼ねる様相があった。 配送先は東アジアの住民の頭上、ベトナムでは人を殺すことで満足せず、森林をも破壊の目標にした。


「米陸軍航空隊公刊戦史」 によると、日本列島の大都市を照準とした焼夷弾攻撃は1945年6月15日に予定の作戦を終えたという。 3月10日には東京を空襲し、1日で10万人以上を殺しているから、無差別爆撃の戦略目標は達したとみなしていいはずであった。


日本の国土を焦土にし、日本人を殺せるだけ殺す…というのが戦争ならば、まだまだ爆弾は余っている。

6月16日、ルメイ少将は17日夜に大牟田、浜松、四日市、鹿児島を爆撃する命令を発した。 456機が7,000~9,000フィートの高度からレーダー爆撃した。 

地上の阿鼻叫喚は機上までは届かない。 爆弾は投下という消費の形をとると同時に、投棄・廃棄の様相を帯びてくる。


鹿児島市の空襲は午後11時5分に始まった。 寝入りばなである。 空襲警報はなかった。

つゆ時で、連日の雨のため防空壕は水浸しになっていた。 腰までつかっているうちに息苦しくなって脱出しようとしたが、外の熱風で戸が開けられない。 壕のなかで窒息死した人も多かったという。


「鹿児島市史」 によると、投下された焼夷弾は推定13万発、この日の死者は2,316人、負傷者3,500人。 8月まで8回に及んだ鹿児島市への空襲の死者は計3,329人、傷者4,633人。

広島、長崎の原爆投下も指揮したルメイ少将は、当時「鬼畜ルメイ」「人殺しルメイ」 と呼ばれていた。


1964(昭和39) 年、大将に昇進していた、かつての人殺し将軍は航空自衛隊の入間基地に招かれ、勲一等旭日大綬章を受けた。

ほんらいは皇居に招いて天皇が親授すべき勲章だが、鬼畜ルメイを皇居内に立ち入らせまいとする力が働いた。 しかし、戦後史の拭いがたい汚点であるルメイ叙勲そのものを阻止する力は当時の政治力学では働かない。

首相はノーベル平和賞受賞者・佐藤栄作だった。 防衛庁長官は小泉純也。 アンポ男の異名があった小泉長官は、旧姓鮫島で加世田市の出身、小泉純一郎首相の父にあたる。




127∇…      4月10日付の書き込みで紹介した地神、水神の写真。 鹿児島市武之橋のたもとに60柱余が集められていた。 

空襲で瓦礫の山になった鹿児島市の中心街を復興するとき大規模な区画整理が行われた。 区画が変わって地神、水神はどこに戻ればいいのか分からなくなった。 

お役御免になった神々は、緑地公園として残された甲突川沿いに集められた。 お守りする人もほとんど絶えた神々の墓場。 空襲は土俗の信仰をも焼き尽くした。














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COMMENT
私が中学の時に聞いた耳タコ話(担任教科外を話す)です。爆弾を落としても効果が薄い、木と紙で出来てる家だから火を着けたら燃えるだろうと、焼夷弾にしたと。
水に浸けても火が消えないろくでもない物だったとか。
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